デビュー60周年! 漫画家・里中満智子氏の波乱の半生を綴ったエッセイ。“運命に立ち向かうヒロイン”はいかにして生まれたのか?
PR 公開日:2024/1/29
漫画家志望の人にとってプロになるまでの道は、恐らく私が想像している以上に険しいだろう。今はSNSや電子コミックがあり、デビューするためのチャンスは増えたかもしれないが、デビュー後も決して安泰とは言えない職業である。その後数十年、漫画界の第一線で活躍できるのはほんの一握りの人ばかりだからだ。彼ら、そして彼女たちには「天才」「伝説」という肩書がつき、類まれなる才能に漫画家を目指したことがない私でもうらやましさを感じる。そういった大御所の漫画家は、きっと幼少期から特別な環境にいて、デビュー後は順風満帆、ヒット作を多数生み出しながら華々しい人生を送っている気がしていた。『漫画を描く―凛としたヒロインは美しい』(里中満智子/中央公論新社)は、そんな私の甘ったるい想像に、2024年でデビュー60年を迎える少女漫画家・里中満智子さんがNOを突き付ける目を見張るようなエッセイだった。
大御所と呼ばれる漫画家は、たしかに稀有な才能のある人ばかりだ。しかし私たち読者の見えないところでは血のにじむような努力をしている。里中さんが駆け出しの漫画家だったころ、少女漫画誌にはほぼ男性編集者しかおらず、漫画家たちが女性の視点で漫画の企画を出してもはねられることが多かったそうだ。それでも諦めずに思い描いた物語が読者の胸に刺さるはずと信じて果敢に挑戦した漫画家たちが少女漫画界の改革に貢献した。里中さんもそのひとりで、彼女は運命の相手が迎えに来るのを待つヒロインはあえて自作に登場させず、自らの人生について深く考え、強く前に進んでいく女性たちを描き続けたという。
筆者が初めて里中さんの漫画に出会ったのは、子どものころからほとんど漫画を読まずに育った母が、里中さんの『あした輝く』(中央公論新社)だけは本棚に大切にしまってあるのを目にした時。当時、漫画好きな子どもだった私は、「里中満智子」という作者名を記憶していて、文庫化された漫画を好んで買って読んだ。特攻隊員たちと彼らを愛する3人の女性を描いた『積乱雲』、歴史上は悪女のようにとらえられている持統天皇を血の通ったひとりの人間として取り上げた大作『天上の虹』(講談社)などを読み、時代を超えて懸命に生きる彼女たちに自己投影しながら作品の完成度の高さに衝撃を受けた。母も私も、そして恐らく次世代の少女たちも、時代など関係なく里中さんの描く漫画のヒロインに力づけられていたのだ。彼女たちが、時には自分ではどうしようもない悲しい運命にのまれて挫折しながらも、懸命に考え、立ち上がろうとする姿は今も私にパワーをくれる。
そして里中さんの文章でつづられた今回の自伝は、里中さんの幼少期から今に至る人生そのものが明かされている。近年、文化功労者にも選出された里中さんがなぜ考えるヒロインを描こうと思ったのか、手塚治虫など、どのような漫画家たちと出会ったのか等、漫画家として振り返る自分の作品を形作った経験が、ひとつひとつ丁寧に描写されている。
例をあげると高度成長期、漫画が悪書だと敬遠される時代に生まれ育った里中さんは、漫画を通して、自分と相いれない立場の事情を考える想像力、物語はすべて作者の考え方が投影された登場人物の考え方や生き方を伝えるものだと知った。やがて選択ばかりの人生で、大切なのは「考える」ことだと気づくのだ。また、里中さんは人生の途中で病気を患ったことや、子どもを産むことを望みながらも叶わなかったこと、ごく一部の読者から批判を受けた時にどう乗り越えたのか等、漫画家ではない私にとっても再現性のあるプライベートな内容も語られていて、読み進めるごとに里中さんの人生が自分に近づいてくるような感覚をおぼえた。
里中さんが漫画を通して描く人物に、私が共鳴するのは漫画の登場人物の呼吸音が聞こえるかもしれない。私が里中さんの漫画でもっとも好きな『天上の虹』の持統天皇もそうだ。激動の時代を生きた彼女は、聡明でありながらも、思ったことがうまくいかないことも多く挫折を繰り返していた。しかし少女時代から老境に入るまでの長い人生で、国を良くするためにずっと考え続けた女性として描かれた。
「私もこのような女性になりたい」
私は、辛い出来事があっても道を切り開くことを諦めない持統天皇に憧れ、幾度も自分が悩んだ時に励まされた。持統天皇の人物設定の背景には、里中さんの経験によって得た考え方が投影されていたのだ。
大御所の漫画家であると共に、里中さんは等身大の女性でもあった。人生で困難に直面するたびに里中さんの心は激しく動く。しかしそこで思考停止をしない。考え、悩みながら漫画を描き続けている。そんな里中さんのひとつひとつの大切な記憶を丁寧に映し出したのが本作なのだ。自分の信念をもとにひた走る彼女の、決して順風満帆とは言えない人生を知り、僭越ながら「あなたと同じだよ」と背中を押されたような気持ちになった。きっと、それは私だけではないだろう。本書からは、里中さん、そして里中満智子作品のヒロインたちと同じように、必死で生き、真剣に考える人間の息吹が感じられる。
文=若林理央