芥川賞・受賞作『東京都同情塔』は新種のディストピア小説。多様性への配慮が犯罪者への過保護を生み出す!?

文芸・カルチャー

公開日:2024/1/26

東京都同情塔
東京都同情塔』(新潮社)

 昨年4月に刊行された『ユリイカ 特集=〈フィメールラップ〉の現在』で、とりわけ目を惹いたのが、実在の音楽家の名前が登場する短編小説『Planet Her あるいは最古のフィメールラッパー』だった。同作は小説家の九段理江氏による、ラップへの偏愛を滲ませる短編小説。同作が、筆者が彼女の小説に興味を持つ最大の契機となった。そして、第170回芥川賞を受賞した九段氏の『東京都同情塔』(新潮社)を味読して、同誌での乾いた詩情を孕む文章を久々に想い出したところだ。

 本書には、主人公の女性がビョークの「カム・トゥ・ミー」を歌唱しながらヨガに没頭するシーンがあるが、『Planet Her~』での主人公の女性は、Doja Catというラッパーの曲を流しながらジムで運動に励む。そもそも、『東京都同情塔』という書名からして、ヒップホップのように韻を踏んでいる。裏を返せば、それだけラップというジャンルが文学界に(ちなみに演劇界にも)浸透/普及していることの証だと言える。

 九段氏とラップの関わりはここではひとまず措くが、これが今後深く論じられるべきテーマなのは明々白々だ。女性ラッパー研究の急先鋒でもある文筆家の「つやちゃん」は各所で、〈女性とラップ〉というテーマを言語レヴェルで消化している新進小説家として、日比野コレコ氏と九段氏の名前を挙げている。納得、そして完全に同感である。

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 小説の舞台は、ザハ・ハディド案の新国立競技場建設が物議を醸した頃の東京。東京オリンピック準備期間の話を、事実とはやや乖離した世界線で描いた物語である。主人公は、その新国立競技場をライヴァル視する気鋭の女性建築家・牧名沙羅だ。

 彼女は超高層の真新しい刑務所を設計するのだが、彼女のつけた「東京都同情塔」という名称はいともあっさり変更される。一方、有識者らが決めた名称は「シンパシータワートーキョー」。この不自然きわまりなく映るネーミングにいぶかしさを拭えない牧名は、ひとり懊悩する。

 牧名の気持ちはとてもよく分かる。現実にこういうことは起きているからだ。2019年、山手線の新しい駅を「高輪ゲートウェイ」とすることがJR東日本から公表された。ネットや新聞には「ダサい」「山手線らしくない」といった声が多数寄せられ、新駅名を茶化す声が溢れたのを覚えている。

 駅名発表から7日後、エッセイストの能町みね子氏はオンライン署名サイトで新駅名の「高輪ゲートウェイ」に反対する賛同者を呼びかけ、約1か月間で4万7930筆もの署名が集まった。能町氏は地図研究家の今尾恵介氏や国語辞典編纂者の飯間浩明氏らとともに「山手線の新駅名称を考える会」を発足させ活動したが、現在も駅前は変わっていない。

 あるいは、筆者が高校への通学に使っていた東武野田線は、2014年から「東武アーバンパークライン」という愛称を導入したが、まったく根付かなかった。荒涼としたベッドタウンを通る電車に「アーバン」とつけるセンスにズレを感じたものだ。器と中身がつりあっていない時、人は生理的にこれは受け付けないと思ってしまうのではないだろうか。

 なお、牧名の設計で新宿御苑に建った「シンパシータワートーキョー」には、犯罪者、受刑者、非行少年などと呼ばれてきた人々が収容されている。彼ら/彼女らは、過剰なまでに寛容で過保護な日本国民に見守られ、シャバよりも優雅で快適な生活を送っていた。子供時代に悲惨な環境に置かれて育った収容者たちは、ある意味被害者でもある。だから、彼らを幸福になれる場所に隔離して犯罪を根絶させよう、という理念がその根底にはあるようだ。

 本書の半ばで〈多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない〉という箇所がある。なにかと言えば多様性、多様性、と呪文のように唱えられる現代にあって、犯罪者もまた多様性の肯定によって包摂される、ということなのだろう。強烈なアイロニーとも取れる一節だ。一方で、これは、新種のディストピア小説でもあるのだと恐怖の感に打たれた。

 カタカナを不必要に使う機会を減らしたい、という沙羅の思考の軌跡も面白い。〈母子家庭の母親=シングルマザー。配偶者=パートナー。第三の性=ノンバイナリー。外国人労働者=フォーリンワーカーズ。障害者=ディファレントリー・エイブルド。複数性愛=ポリアモリー。犯罪者=ホモ・ミゼラビリス〉——。

 こうした形容が濫用される風潮に、九段氏自身、すわりの悪さを覚えていたのかもしれない。なんとなくカタカナにすれば、マイノリティへの差別を和らげることができる(のか?)。それはなんの根拠もない事なかれ主義であると筆者は思うが、沙羅もまたそうした持論を端々で開陳してゆく。

 また主人公のAIに関する嫌悪感が、本書の重心を支える背骨でもある。「クソAI」という言葉が連呼される文中で、牧名と懇意の若者男性・タクトは容赦ない批判をAIに浴びせる。以下がその抜粋だ。

 文章構築AIに対しての憐れみのようなものを覚えていた。他人の言葉を継ぎ接ぎしてつくる文章が何を意味し、誰に伝わっているかも知らないまま、お仕着せの文字をひたすら並べ続けないといけない人生というのは、とても空虚で苦しいものなんじゃないかと同情したのだ。

 一方牧名は、〈途中式が書かれていない解答に丸はつけない。つける人もいるのも知ってる。でも、私はつけない、絶対に。偶然かもしれない、再現性のない成功を許すわけにはいかないから〉とプロセスの欠如した生成AIの思考回路に疑義の念を呈する。著者の九段氏は執筆でChatGPTを使うこともあるそうだが、だからこそその限界と隘路にぶちあたり、こうした言い回しを使うに至ったのではと想像する。

 牧名は時事問題に過度に自覚的/意識的であり、問題点にかみついてもみせる。カタカナ言葉や多様性という美辞麗句の氾濫はもちろん、SNSにその矛先が向くことも。そんな牧名を主人公に据えた九段氏は「コンシャス」な作家だと感じるが、本書ではそうした資質が嫌味のないバランスで開花したように見える。

 生真面目な社会派、と言いたいわけではない。日常の違和感を特殊な建築の構造や成り立ちと絡めて描き、社会に蔓延る欺瞞を暴きたてる。その筆法があまりにも革新的でひれ伏したのである。こんな機略に富む離れ業をやってのけた作家が、現代文学史上、他にいただろうか。少なくとも私は他に知らない。

文=土佐有明