27歳で「リーセントホテル」の料理長になった中国料理家・脇屋シェフーの哲学。鍋洗いから始まった下積みで学んだ覚悟とは?
公開日:2024/2/10
職人の世界とイメージされる、中国料理界“一筋”で50年。メディア出演も多数の脇屋友詞シェフの自伝『厨房の哲学者』(幻冬舎)には、強く心を打たれる。
著者は中学時代、占いを生業とする父に「食神」が付いていると言われ、自身の意志に反して中国料理界へ飛び込むことに。中学卒業後、友人たちが春休みを謳歌する中で、脇屋シェフはキャリアの原点となった東京・赤坂の中国料理店「山王飯店」で寮生活をスタートした。
下積み時代の経験は、そうとう濃かったのだろう。それは、目の前に光景が広がるかのような本書の詳細かつ鮮明な描写からも伝わる。家族と離れた生活で、なじみのない「中国語」も飛び交う環境は「未知のものばかり」だったと回想する脇屋シェフ。中国料理界で、最初に与えられた仕事は、先輩たちの「冷ややか」な視線も受けながらの「鍋洗い」だった。
入社初年の暮れ、脇屋シェフは一つの転機を迎える。失敗を重ね、先輩に罵られる日々には「葛藤」もあった。しかしふと、休暇中に1人で訪れたスキー場で見つけた「偉い人の書いた言葉」に、心を動かされた。
その言葉とは、小説家・武者小路実篤による「この道より我を生かす道なし。この道を歩く」だったという。見た瞬間に「とても大切なことが書かれている気がした」と振り返る脇屋シェフは、自身で「何かを選ぶこと」の重要性を悟った。
当時、10代後半とまだ若かったが、自身で「選ばなければ、人生は始まらない」と覚悟。小さな成果でもやがては大きな成果を得られるという意味の故事成語「雨たれ石を穿つ」を体現するかのように、仕事に前向きにまい進するようになった。
後輩も迎えながら、3年半にわたる「鍋洗い」を経て「山王飯店」を辞めようと決断。延々と続く「下積み」の出口が見えなかったからで、27歳で「リーセントパークホテル」で「料理長」を任されるまで、脇屋シェフも居場所を求めて様々なお店を転々としていたのは、意外だった。
本書は「重要なのは、何かを選ぶこと。選ばなければ、人生は始まらない」と強くメッセージを発する。今や、生き方の選択肢が無数にある時代となったが、だからこその悩みや迷いもある。そんな時代だからこそ「選ばざるを得なかった仕事に黙々と熱狂」し続ける脇屋シェフの生き様には、学ぶべきことが多いと思えてくるのだ。
文=カネコシュウヘイ