「2000年代韓国文学における最も美しい小説」と言われた恋愛小説。影に怯える暴力的な大都会の2人の恋愛を描く
公開日:2024/2/14
「2000年代韓国文学における最も美しい小説」と言われるファン・ジョンウン『百の影』(オ・ヨンア:訳/亜紀書房)が2023年10月に邦訳された。物語の舞台は大都会の中心に位置する電気機器ビル群。ここで働き暮らす、ウンギョとムジェの恋愛小説である。
本書は7章の短編連作で成り立つ。第一章はこのようなものである。
〈森で影を見かけた。
はじめのうちは影だと気づかなかった。茂みをかきわけて入っていく様子を見て、そっちのほうにも道があるのかと思いながら、その後ろ姿に見覚えがあるような気もして後をついて行った。
(中略)
ウンギョさん。
と呼ぶ声に後ろを振り返ってみると、ムジェさんが立っていた。〉
「森」
影。影法師のことである。本書では「影」そして「影について行ってはいけない」という注意が繰り返される。しかし「思わずついて行ってしまいそうになる」こと、「ついて行ってしまった」人の顛末が語られる。みな一様に影を恐れているのだ。
〈そこが怖いんだ。影に引っ張られるままほいほいついて行くと、なんだか胸がすっとして、頭が真っ白になっていい気分になるんだ、それでついつい、ついて行ってしまうんだ。〉
「つむじとつむじとつむじではないもの」
影のモチーフはなんだろうか。それはウンギョたちが暮らす土地に関わりがある。小説の舞台となっている「大都会の中心に位置する電気機器ビル群」は、おそらく龍山(ヨンサン)のことだろう。日本の秋葉原にも似たその街では、2006年に再開発事業が推進され、住居人や商人に対する補償問題が浮上。2008年に強制撤去に抵抗するための座り込みが始まり、2009年1月20日に大規模な衝突が起こった。火炎瓶、塩酸、鉄パイプなどが使われ、6人が死亡、25人が負傷。この事件は「龍山惨事」と呼ばれる。
あとがきには、「2009年の春と夏にかけてこの小説を書きました」とある。龍山の開発は進み、現在では風景が大きく変わってしまったという。弱き者に巨大な力を持って向かってくる暴力。それが「影」のモチーフなのではないだろうか。
そのような世界で、ウンギョとムジェは静かに距離を縮めていく。注意深く緩やかに、詩のように美しい呼吸を持って。二人での食事、メモをしなくても記憶している電話番号、少しずつ打ち明けあうお互いの秘密。二人は肉体的に相手に触れない。その代わりに言葉を使う。例えばこのような会話がある。本書は「」を使わず、詩のように会話が綴られるのが特徴である。
〈あたしは、好きな人と確かめたいんですけど。
好きになればいいでしょう。
誰をです。
僕をですよ。〉
「森」
ウンギョとムジェが惹かれ合う世界で、「影」の気配は消えることがない。それぞれの環境に生まれ育ち、これからも生きていくということ。どのような世界でも、どのような自分でも、ここにあなたがいるだけで、物語は紡がれる。
文=高松霞