昭和の猟奇殺人「阿部定事件」犯人の生涯をひもとく。「アベサダ」と記号化された女性を「懸命に生きた人間」として描いた村山由佳の新境地『二人キリ』

文芸・カルチャー

PR 公開日:2024/2/9

二人キリ
二人キリ』(村山由佳/集英社)

 私が「阿部定事件」を知ったのは、中学の社会の授業だったと記憶している。昭和11年5月18日、阿部定と名乗る女性が、愛人の石田吉蔵を絞殺し、殺害後に局部を切り落とし持ち去った。猟奇殺人として現代まで語り継がれてきた阿部定事件は、人物名と殺害方法ばかりがクローズアップされる傾向にある。しかし、事件の背景には、阿部定本人の生い立ち、彼女を取り巻く人々の想いと生活があった。残された文献や資料を頼りに、作家デビュー30周年を迎えた村山由佳氏が、「小説」という形で阿部定の生涯をひもといた新著『二人キリ』(集英社)を刊行した。本書を読んで、私の中にあった阿部定の印象は一変した。“恐ろしい女”だと勝手に思い込んでいたその人は、情が厚く感情豊かで、己の人生を懸命に生きた女性であった。

 物語は、脚本家の吉弥が、還暦を過ぎた阿部定に会いに行く場面からはじまる。彼は、吉蔵の死の真相を探るべく、10代の頃から関係者の元へ足を運んでいた。世間に出た新聞記事や阿部定に関する書物も含めて、集めた証言や資料は膨大な数に及ぶ。ある日、それらを映画監督の友人Rに見つかり、阿部定本人に会いに行くよう説得された吉弥は、逡巡しながらも行動を起こす。

 吉弥は、阿部定に関する本の執筆を望んでいた。また、友人のRは本の発売と同時に、阿部定にまつわる映画の公開をも目論んでいた。吉弥たちの望みを知った時、定は過去を掘り返される事態を恐れて激昂する。刑期を終えて出所してからというもの、定はいくたびも興味本位のテレビ番組やカストリ本に傷付けられてきた。自分と吉蔵との間にあった出来事を、面白おかしく卑猥な表現に集約されることは、定にとってこれ以上ない侮辱であった。吉弥は「そのような目的ではない」と必死に訴えるが、定は頑として認めない。しかし、吉弥の正体に気付くと、定の怒りはみるみる萎んだ。吉弥の左目は、幼少期の頃から義眼であった。事件のほんの数日前、吉弥は母と共に、偶然にも定と出会っていた。吉弥の特徴的な義眼を、定は覚えていた。

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 吉弥がこれまで集めてきた証言を差し挟みつつ、吉弥と定の視点が入れ替わりながら物語が進んでいく。証言者は、定の幼少期の遊び友達、仕事の世話をしていた人物、愛人に至るまで多岐に及ぶ。証言と共に振り返る定の半生は、激動であったと言わざるを得ない。14歳の頃、望まぬ形で大学生に乱暴をされ、それを機に不良たちと遊びまわるようになり、激昂した父親に娼妓として売り飛ばされた。以降は、坂道を駆け下るような人生であった。

 だが、本書に描かれている内容は、「不幸な生い立ちだったから事件を起こした」という単純な物語ではない。証言者の話と定の話は、しばしば矛盾する。起きた事実は一つでも、物事をどの角度から見るかで景色は大きく変わる。著者はそのことを知っていたから、「小説」という手法で阿部定の生涯を描いたのだろう。

“たとえ元々が実話であってさえ、人に伝えるべく言葉や映像を使って表現されたものは、どうしたってことごとく虚構になっていくんだよ。”

 阿部定の生涯を綴るにあたり、創作を織り交ぜることが果たして正しいのか。そう思い悩む吉弥に、Rがかけた言葉である。吉弥が抱いた葛藤は、著者本人が抱いたそれと重なるのかもしれない。どれだけ事実に即した内容を綴ろうとも、書き手の意志は存在する。何を伝えたいのか、どこを強調したいのか、それらは明確な意志を伴い、少なからず虚構を生み出す。証言者たちの語りに定が憤りを感じるのも、そういった点があったからだ。

“起こった出来事から過去にまで遡って、まるで後出しじゃんけんみたいに結論づけるなんてずるい。”

 罪を犯した人のことを語る時、相手の欠点を悪様にあげつらう傾向は多分に見られる。過去の出来事を掘り返し、「昔から問題があった」「いつか何かやらかすと思っていた」と囁く人たちのうち、一体どれほどの人が真実を知っているのだろう。他人のすべてを理解するなんて、実質不可能だ。罪そのものは揺るがぬとしても、そこに行き着く過程、被害者と加害者の心情は、当人にしか知り得ない。

 本書は、阿部定という1人の女性の生涯を追う中で、「人をわかった気にならない」ことの大切さをも説いている。他者の感情を決めつけ、己の一存でジャッジすることの浅はかさに多くの人が気付いているはずなのに、なぜかそのような発言はなくならない。定と吉蔵がそうやって奪われ続けた尊厳を包み込むような温かさが、本書からにじみ出ていた。「チン切りの阿部定」として記号化された彼女を、1人の人間に戻す。そんな著者の想いは、記号化されることに息苦しさを覚える人々の呼吸をも楽にしてくれるだろう。

文=碧月はる