右目に大きなアザがある女子高生のコンプレックスとの向き合い方。『青に、ふれる。』7巻完結を記念して鈴木望先生に話を聞いてみた

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PR 公開日:2024/2/18

「太田母斑」と「相貌失認」という言葉を聞いたことがありますか? 「太田母斑」は、1000人に1人か2人が発症するという青いアザのことで、「相貌失認」は他人の顔を区別できない症状のことを指します。7巻で完結した『青に、ふれる。』は、右目のあたりに大きな青いアザがある高校生・瑠璃子と、相貌失認を抱える教師・神田先生を巡るお話です。本記事では、著者・鈴木望先生に、瑠璃子や登場人物のキャラ、印象深いエピソードなどについて聞いてみました。

鈴木望先生1

――主人公の瑠璃子には右目のあたりに大きな太田母斑があります。いつも笑顔で、友達にも囲まれていて、アザのことを気にしているそぶりはありませんが、他人からの口さがない言葉に傷つきもするし、人に気を遣わせるのもいやで、内心の葛藤を笑顔で覆い隠しているだけ。そんな彼女が、自分自身を受け入れ、心から笑えるようになっていく過程に、最後まで目が離せませんでした。

鈴木望(以下、鈴木):瑠璃子は、明るくしていなきゃと思い込んでいて、なんでも自分ひとりで抱え込んでしまう女の子。作中でも言われるような「気遣いの鬼」というイメージで描いていました。そんな彼女が、4巻の修学旅行で舞妓体験をし、メイクを落としたアザのある素顔を見て「これも私だ」と気づく場面は、とくに描けてよかったなと思います。

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――修学旅行のエピソードでは、友人のケイちゃんが「自分の顔を好きになるためにメイクをしているはずなのに、どんどん、メイクをしていない自分の顔が嫌いになる」という話をしますよね。その想いに共感するからこそ、アザをメイクで隠したり治療したりすればすべてが解決するわけじゃないという本作のテーマも浮かび上がった気がします。瑠璃子が「これも私だ」と思えたことの強さも。

鈴木:ケイちゃんたちと語りあうシーンは、描こうと決めていたもので。1巻で瑠璃子が「誰だってコンプレックスを持っている」と言いながらも、自分のアザと比べて「その程度でいいね」と思ってしまう場面がありますが、人それぞれの悩みを本作では多角的に描きたいと思っていました。実は、瑠璃子が「アザのある顔も私だ」と思う場面は、描きながら私自身も「そうだよね」と腑に落ちるものがありました。

――多角的に描かれることの象徴が、もう一人の主人公である神田先生ですね。瑠璃子が通う高校の教師で、他人の顔を区別できない相貌失認という症状を抱えています。

鈴木:瑠璃子の悩みは、誰が見てもわかりやすいものだからこそ、見えないところで葛藤を抱えているキャラクターを描きたいと思ったんです。『青に、ふれる。』の構想を練っているときに相貌失認という症状を知り、調べていくうち、症状を抱えながら教師をしている方の存在を知りました。相貌失認の方にとって、教師は向いていないとされる職業なのですが、考えてみれば顔の区別がつくかどうかがいい先生の条件というわけではありませんよね。

――顔がわかっても、生徒の区別がついていない先生はいますからね。

鈴木:たとえ外見の見分けがつかなくても、一人ひとりにちゃんと寄り添おうとしてくれるなら、それはいい先生だよなあ、と。神田先生を通じて、いい先生とはどういう存在なのかも考えていた気がします。

――神田先生に影響されて、同僚の白河先生も、どんどん教師らしくなっていくのが好きでした。誰もが目を惹かれる美人で、神田先生に対するアプローチをふくめ、反感をもつ読者も多かったのではと思うのですが……。

鈴木:最初は2~3巻で終える予定だったので、わかりやすく瑠璃子の逆をいくキャラクターとして描いていたのですが、だんだん、彼女を通じて日本の女性が抱える生きづらさみたいなものが見えてきて。スペックが高いからこそ、誰も「自分」を見てくれないしんどさというのを、白河先生は味わってきたと思うんです。だからこそ自分も、女性として求められている役割をつい演じてしまう。そういう建前みたいなものを捨てて、本当に神田先生のことが好きになりかけていた彼女だからこそ瑠璃子と神田先生の関係性を語る場面は、描いていて切なかったです。

――最終巻ですね。あれは切なかった……。

鈴木:ただ、実を言うと私自身も、描きながら「そうはいっても美人なのだからいいじゃないか」と思ってしまうときがあって。マンガ家として描きたいもの、描かなくてはならないものと、私自身の感情に折り合いがつかない瞬間も連載中はしばしばありました。白河先生だけでなく、大橋くんのエピソードも、けっこう葛藤しましたね。

鈴木望先生2

――中学時代の瑠璃子といちばん仲の良かった男の子なのに、陰で自分の容姿に対してひどい言葉を使っているのを聞いてしまい、それが瑠璃子の不登校の原因にもなりました。

鈴木:あのエピソードを描いたのは、私自身が傷つく言葉をいろいろとぶつけてきた人に対して、昇華できない気持ちがあったからなんです。でも、許せなさを抱え続けるのもしんどいんですよ。ものすごく重くて、苦しい。どうしたらいいんだろう、と考えたとき、謝ってもらえたら何か変わるかなと思ったんですね。少しはラクになるんじゃないかと。

――それで、別の高校に進学した大橋くんが、謝りにくるというエピソードが。

鈴木:でもいざ描き始めてみると、大橋くんが謝るのは自分がそうしたいからで、その行動は彼をラクにするだけかもしれない、と。ただ、自分が原因で誰かがしんどい思いをし続けているのはやっぱりいやだな、と思ったんです。それは自分にとっても相手にとっても不幸なことだと。許すか許さないか、という目先の話ではなく、一歩先を見て、よりよく生きていくにはどうしたらいいかを考えたとき、謝罪を受け入れて新しい関係を構築するというのは、一つの選択肢としてありなんじゃないかと思いました。

――謝罪を受け入れるかどうかは、現実でも賛否両論ある問題だと思いますが、個人的には、心の底から悔いて、今度こそ誠実に瑠璃子と向き合おうとしている大橋くんが好きでした。

鈴木:よかったです。「謝れば許してもらえる」と、謝る側が思ってるのは嫌ですけど、私だって知らないうちに誰かを言葉で傷つけたことはあるはずで、間違ってもやり直せる可能性のある世界のほうが、誰にとっても生きやすいんじゃないのかな、と思ったんです。もちろん、どうしてもわかりあえなくて関係を断つしかない人もいますが、そうじゃない可能性もあってもいいのではないかと。

――折り合いのつかなさに向き合うのって、たとえば白河先生を羨んでしまったり、大橋くんを憎んでしまったり、自分のなかにあるネガティブな感情に向き合うことでもあるじゃないですか。それを乗り越えながら描くのは、ものすごくハードな作業だったんじゃないかと思います。

鈴木:実を言うと、今でも折り合いのついていないことはあるんですよ。でも、そういう自分を認めてあげるのが大事なんじゃないかなと今は思っています。おっしゃるとおり、そこにあるのはネガティブな、どろっとした感情なんだけど、それがあるからこそマンガを描くことができる。人間としてのうまみなのかもしれないな、と。全部ひっくるめて自分なんだと認めたうえで、自分や状況を俯瞰的に見るようにするというか、一段高い視点でとらえられれば、作品にも落とし込めるんですよね。

――折り合いがつかなかったからこそ描けた、みたいなエピソードはありますか?

鈴木:最終巻の、瑠璃子と母親のエピソードですね。私自身、家族には複雑な感情を抱えていて、大人になるにつれてだいぶ解消できたと思っていたんですけど、やっぱり描くのはつらかった。絶縁するにしても覚悟がいるし罪悪感もあるし、関係を断っても断たなくてもわだかまりは残るという。でも、人間関係って、《解決》を目標にするとこじれるという実感もあって、それよりは、お互いによりよい状態で関係を築くにはどうしたらいいかを考えたほうがいい。一緒に考えることができたら、もっといいですよね。

――神田先生も、親との関係は複雑ですよね。相貌失認がきかっけで人間関係で揉め事を起こすと「気を引きたいのか」と叱られ、「ズルい子」だと言われ続けてきた。症状が明らかになったあとも、言い訳にして逃げているというようなことを言われたり……。

鈴木:ズルい、逃げるのが悪い、というような言い方をする人って、色んな我慢を重ねていたり、本当は自分が逃げたいことがあるけど頑張ってるんだと思うんです。自分のことで精いっぱいで、だからといって自分の問題に向き合う余裕もない。我が子である神田先生の人格を否定し続けてきたのはひどいことだけど、それはそれとして、生まれた子どもが自分の望んだとおりではなかった場合に受け入れられない、ということは人間だからありうることだよね、とも思うんです。すべての親がありのままの我が子を受け入れられるわけではないですから。

――「自分の子なのにどうして」と思ったことのある親は、少なくないような気がします。

鈴木:私の家族も、私自身を見ようとはせず、「こうあってほしい」という理想像をずっと投影していて。それがつらくはあったけれど、私が家族に「ありのままの自分を認めてほしい」と願うことは、私の視点で相手を変えようとしているということじゃないですか。私も、家族の視点で自分を変えられようとするのがすごくいやだったのに、同じことをするのかと。だったら、相容れない相手に対しては、家族であっても、心地のいい距離をとって上手におつきあいしましょうね、と。精神的な距離をとることも大事だなあと、あらためて思います。

――瑠璃子とお母さんは距離をとりながらも近しい関係であることを選びましたが、神田先生は関係を断つことを選びました。一人ではどうしても思いきれない神田先生に、「傷つけてくる奴からは逃げていいんだ」と言ってくれる友達(早乙女)がいるのも、すごくよかったです。

鈴木:友達に「傷ついた時は“弱い”じゃねーよ。 “痛い”だろ。」というものもありますが、私自身が言われたことでもあって。家族との関係について、また傷ついちゃった、私は弱い、という話をしていたとき、担当さんが同じことを言ってくださったんです。『青に、ふれる。』を描き始めてから気づいたことなのですが、傷ついたときにその経験をすぐに話せる存在がいてくれることって、ものすごく大事なんですよね。誰かに「それは許せない」と味方になってもらえるだけで、傷つきすぎないで済む。そういう人が私にはいなかった、いたかもしれないけど私の心が閉じていた、これまでの自分の経験があるからこそ、『青に、ふれる。』が今生きづらい人にとって味方のような存在になればいいなあ、って。

鈴木望先生3

――教師と生徒という立場でありながら、一人の人間として互いの痛みに寄り添いあい、同志のような関係になっていく瑠璃子と神田先生が好きでしたが、生徒同士・教師同士にしなかったのはなぜなのでしょう。

鈴木:青山瑠璃子と神田野光は、同年代だったら出会えないというか、出会ったとしてもどこか共依存的な恋愛関係になると思ったんです。でも、生きづらさを解消するのって、恋愛関係だけではないでしょう。瑠璃子は神田先生のことが好きだし、神田先生も瑠璃子に惹かれているから、それは確かに恋かもしれないんですけれど、人間関係ってそれだけで集約できるものじゃないよね、もっと広がりのあるものだよね、ということも描きたかったんです。男と女ではなく、お互いを個として認めたうえでコミュニケーションを重ねていけるのが、友達にせよ恋愛にせよ理想だと思っているので、簡単には一線を越えられない関係にしました。それに、十代には十代の、二十代には二十代の葛藤があるということも描きたかったので。

――十代だからこそ、かもしれませんが、瑠璃子は神田先生よりも揺らぎ、葛藤し続けていますよね。どういう自分でありたいか、答えを見つけたかと思っては揺れ、もう大丈夫と思ったすぐあとにまた悩み……。その揺れが、簡単に答えなんて見つからなくていいんだ、と言ってもらえているようで、励まされもしました。

鈴木:「揺れてもいいんだよ」っていうのも一つのメッセージかなと思っていました。「アザのことなんてもう気にしていません」みたいに強く言い切ることを求められる世の中こそが生きづらい、ってずっと思っていたので。誰だって「今日は調子が悪いな」みたいなときはあって当然だし、自分は「これ」って決めても決めなくてもいい。決めたけれど、そこまでたどりつけなかった自分のままでもいい、全部オッケー、みたいな想いが読者に伝わってくれたらいいですね。

――次はどんな作品を描くご予定ですか?

鈴木:実は『JOUR』での連載が決まっていて。戦国時代に、日本人が奴隷として売買されていたっていう史実に基づいたお話なんですけれど。

――まさかの歴史モノ!

鈴木:まさかですよね(笑)。私も、次回作では三十代の女性を主人公に「今の私の等身大っぽい感じ」を描くつもりだったんですけど、『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子/中公選書)という本に出会ってしまって。その本によると、奴隷として売られた日本人は、ポルトガルやスペインをはじめとする世界各地でコミュニティをつくっていたそうで、その史実は教会に残されていた結婚の記録等から明らかにされているんです。コミュニティをつくれるほど大勢の人が異国に売られ、奴隷として働き、結婚し……。その土地で生きていた人たちのことを考えたら、物語がぶわっと頭のなかで広がって。

――めちゃくちゃおもしろそうです。その本も読んでみたい。

鈴木:性別や生まれ育った環境が違う人と、どう一緒に生活していくか、お金が絡んだときに恋はどういうものになっていくのか、自分の価値ってなんなのか。そういう現代にも通じるテーマも描けるんじゃないかなと思っています。『青に、ふれる。』で私がずっと考えていた「いかに心地よく生きるか」や、価値観の異なる人たちとどうコミュニケーションをとっていくか、というテーマにも繋がっていく気がしますので、こちらもぜひお読みいただけると嬉しいです。

取材・文=立花もも、撮影=後藤利江