おすし大好き/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙 #4

文芸・カルチャー

公開日:2024/2/25

 鮨が好きだ。世界中の食べもので一番好きかもしれない。海から獲れた有難き一切れを、酢飯で握って一口で味わう瞬間。もし毎日同じものを食べなくてはいけないとして、私は鮨を選ぶだろう。

 鮨好きと語りあうとき、訊きたいことが一つある。結婚するならどのネタか。この選択はかなり難しい。良いところだけではなく悪いところもひっくるめて契りを結ぶのが結婚だ。みんな大好き大トロはお金持ちだし人望もあるけれど、忙しくてなかなか家にいないだろう。エビは人当たりは良いけれどピョンピョンと跳ねて浮気するかもしれない。そんなふうに鮨についてあーでもないこーでもないと言う時間が楽しい。

 斯くいう私はカワハギの肝のせを推したい。クセが無く上品な人柄。さっぱりした身の割に肝が据わっている。小葱や紅葉おろしなど薬味まで用意していて気配りがある。カワハギの肝のせとなら、病める時も健やかなる時も添い遂げられる気がする。滅多に出会えないのだけが残念ではあるが。

「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握り、蠅帳から具の一片れを取りだして押しつけ、子供の皿に置いた。
子供は今度は握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」といった。
かくて、子供は、烏賊というものを生れて始めて喰べた。象牙のような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はつ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。
母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいに掠められたが、鼻を詰らせて、思い切って口の中へ入れた。

『鮨』(岡本かの子)

 酢飯の匂いがぷんと立ち昇ってくるような名文である。酷い偏食で食事を受けつけない息子のために試行錯誤する母。ほんの少し前まで魚を気味悪く思っていた息子が、母の手引きによって初めて鮨を口に運ぶシーンだ。蠅帳(食物を入れる台所用具)から手品のように次々と繰り出される烏賊(いか)や白身の鮨はどれもきらきらとしている。親子の淡く清潔な記憶が美しい。

白く透き通る切片は、咀嚼のために、上品なうま味に衝きくずされ、程よい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」
そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。
むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。
『鮨』(岡本かの子)

 まるで子供をたらしこむように、最後まで生臭さを感じさせない表現。魚の味から程よい滋味すら受け止められることができれば、この子はもう大丈夫だ。

「食べる」ではなく「喰べる」と書くだけで、その身ならずその命を丸ごといただくような野生味を帯びる。食事は何も楽しんだり腹を満たしたりするだけのものではない。息子にとっては生きるというそのものを受け入れられたことを実感する瞬間だったのだろう。

 この垂涎ものの文章を読んで確信した。岡本かの子は相当の鮨好きだったのではないか。彼女が結婚したいネタは何だろうか。気になって眠れない夜である。

吉澤嘉代子

<第5回に続く>

吉澤嘉代子

1990年6月4日生まれ。埼玉県川口市鋳物工場街育ち。2014年にメジャーデビュー。 2017年にバカリズム作ドラマ『架空OL日記』の主題歌「月曜日戦争」を書き下ろす。 2ndシングル「残ってる」がロングヒット。 2023年11月15日に青春をテーマにした二部作の第一弾EP『若草』をリリースし、約3年振りとなる全国ツアーを開催。 2024年3月20日に第二弾EP『六花』をリリース。4月にHall Tour “六花”を開催。 2024年5月14日にLINE CUBE SHIBUYAにて行われた「吉澤嘉代子10周年記念公演 まだまだ魔女修行中。」を皮切りにアニバーサリーイヤーがスタートしている。 10月からは全国を巡るツアー「旅する魔女」を開催中。