「不感症気味になっている心に響く――」森山直太朗×内田也哉子特別対談。アニメ『オチビサン』書き下ろし主題歌制作の裏側
更新日:2024/3/4
「也哉子さんの詩はまったく感情的ではない」。 “欲”のない言葉で紡がれた詩が心に残る
内田:オチビサンたちの住む豆粒町は小さな町だけど、想像力を駆使して、宇宙にまで触れられるような広がりのある作品ですよね。私も、その魅力をどうしたら言葉で表せられるだろう、と考えていました。
森山:まさに、起点が小さな町というのもとても大事というか、モヨコさんは『オチビサン』を自分に向けて描いたと思うんですよ。そういう作品が、実はいちばん強い。自分でなくとも、たったひとりの誰かのために描かれたもの、というのは。僕も曲作りを始めたころは、もっとパーソナルな気持ちで向き合っていたような気がする。自分自身、あるいは具体的な誰かに向けて書いたものが、多くの人の共感を呼び込んだ。具体的だからこそ、不感症気味になっている心に響くのかもしれませんね。
内田:今も、直太朗さんの楽曲はそういうものだと思いますよ。先日、弾き語りのコンサートを拝見したとき、私だけに語りかけてくれている、って本気で思ったんです。たぶん、お客さんの誰もが同じ気持ちだったんじゃないのかな。そういう親密さが、直太朗さんの歌にはありますよね。
森山:ありがとうございます。ちなみに也哉子さんは、歌詞のどこから書き始めたんですか?
内田:もう、そのまま。今ある歌詞のとおりに。スマホのショートメッセージで思いつくまま、ぽつぽつと断片的に送ったから、きっといくつかは削除されたり、加筆をお願いされたりするんだろうと思っていました。だから、いきなり弾き語りのデモテープみたいなものが送られてきたときには腰が抜けちゃいましたよ。もちろん多少の入れ替えやリズムに合わせた整えはありましたけど、ほとんど私が書いたとおり。しかもすばらしい曲に仕上がっていたから。まさに、職人技。直太朗さんこそ、どんなふうに曲をつくったんですか。
森山:それが、覚えていないんですよね。覚えてはいるけど、理由がないといったほうが正しいかな。ただ、できてしまった。言葉の裏側にはすでにメロディが流れていて、僕は行間に流れるものを感じ取りながら、それを具現化するだけなんです。だから、也哉子さんが言葉にした時点で、『ロマンティーク』の曲はできあがっていたんですよ。それはいい詩だという証拠でもある。
――裏側にメロディを感じる言葉と、そうではないものの違いって、ありますか。
森山:欲があるかどうか、ですね。やっぱり、自分のいいところを主張しようとするような、感情的な詩はいい曲にならない。その点、也哉子さんの詩はまったく感情的ではない。
内田:それは、褒めてる……?(笑)
森山:褒めてます(笑)。普遍的な気持ちって、感情論とは違うんですよ。もっと客観的で、無意識で感じ取ったものを言葉に置き換えることで生まれるんです。也哉子さんの文章には、私はこうであるとか、どうしてわかってくれないんだとか、そういうものはない。コンサートで朗読された散文も、母への想いを語ったものではあったけれど、感情論ではなかったですよね。
内田:強いメッセージ性はないですね。
森山:そう。ただ起きたことに向き合って、自分の孤独を見つめたその先にある感覚を、静寂の向こう側にある感情を、淡々とすくい上げて言葉として紡いでいる。そういう文章にはメロディが流れるし、あたたかみも感じられる。ああそうだ、「春は桜よ」の一節に触れた瞬間、わっとあたたかいものが広がって、そこからつくり始めたのは覚えています。感情的な歌やキャッチーな言葉がよくない、ってことではないんですけど、音楽にとどまらず、長く人の心に残り続ける作品というのは、広い視野を持って描かれたものが多いような気がします。