ドラマ「最高の教師」出演の長井短、初小説集『私は元気がありません』。ピカソ的キュビズムの表紙に心がザワザワする

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/17

私は元気がありません
私は元気がありません

 俳優、モデルとして活躍する長井短(ながい・みじか)の初の小説集が出たと知り、本を探してみた。すると『私は元気がありません』というなんとも後ろ向きなタイトルで、表紙のイラストは陰と陽の表情が同居したピカソ的キュビズムを感じさせ、タイトルの文字は筆跡を隠そうとしているのか定規で引かれたような無機質な直線で構成されていた。これはもうただごとではない。タイトルと表紙だけで心がザワザワする。

 表題作「私は元気がありません」は冒頭から息が詰まってしまった。文章がほとんど改行されることなく、みっちり詰まっているのだ。そこにはイラストレーターの仕事をする主人公の30代女性・雪の頭の中の言葉が綴られ、思考があちこちへ飛びながら途切れなく続き、諦念や後悔を滲ませながら、今の変わらない日常にしがみついて生きていることが窺える。しかしなぜしがみついているのか、しがみつかねばならないのか、読者にはよくわからないまま物語は進んでいく。

 セックスをするだけの相手だった吾郎から付き合おうと言われ、彼と同棲を始めた雪は、吾郎が仕事で出張するときに合わせて高校からの友人律子を誘って部屋飲みをする。ここから会話が出てくるのだが、途中からなぜか会話が太文字になっていく。この太文字は「台詞」である。これまで何度も何度も雪と律子の間で交わされた会話が固定化し、同じ言葉と役割を繰り返してきたことで台詞として話されているのだ。そこには「変わりたくない」という思いがあり、その思いが強固に二人を結びつけている。そして気分が悪くなるまで飲み続け、その思いの発端となった出来事が提示されることで、しがみついていた“今”が変化を始める。

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 この本を読んでいて思い出したのは、脚本家木皿泉による小説『昨夜のカレー、明日のパン』に出てくるセリフだった。主人公である未亡人・徹子と同居する義父(なので嫁の徹子はギフと呼んでいる)の連太郎が酔って口にした「人は変わってゆくんだよ。それは、とても残酷なことだと思う。でもね、でも同時に、そのことだけが人を救ってくれるのよ」という人生についての言葉だった。

 友人から「昔と変わったね」と残念そうに言われるのは多くの人が経験していることだろう。しかし楽しかったことも辛いことも経験した上で、思い出を捨てたり、新たに得たことを取り入れたり、捨てるかどうしようか悩んで抱え込んだまま、嫌でも変わっていくことが生きていくということだ。だが頑なに変わらないことで自分が自分であることを保てることもある。たとえそれが世間から間違えていると言われても、そうするしかない場合があるのだ。しかしずっとそうやって生きてはいけない。「私は元気がありません」は変化の前後の出来事が、粘度の高い文章でじっとりと描写されているのだ。

 本書は他に、小学生のときからの男女の友情を描く「ベストフレンド犬山」、女子高生が正しいことと間違えていることの間で揺れる一夜の出来事を描く「万引きの国」が所収されている。こちらも独特の“長井短ワールド”が展開していた。

「元気ですか」と聞かれたら、もし元気がなくても「元気です」と答え、元気なふりをしてしまう──世の中にはそんな人がたくさんいる。そんなちょっぴりネガティブだけど他人に優しい人たちへ、できるだけ安全で暖かい、小さな場所を空けてあげたくなるような小説だった。

文=成田全(ナリタタモツ)