村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』はどんな話? 《考察好き》の読者を刺激するひと夏の物語/斉藤紳士のガチ文学レビュー②
公開日:2024/4/8
毎年ノーベル文学賞が発表される時期には必ず名前が挙げられる日本人作家がいる。
本当にノミネートされているのか真偽のほどは分からないが、それだけ注目度が高く、日本が世界に誇る稀有な小説家であることは間違いない。
今回はその世界的小説家・村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を紹介します。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。
主人公の「僕」がこの言葉の記憶と共に八年間のジレンマを振り返り、とある小説家について語るシーンから小説は始まる。
その小説家の名前はデレク・ハートフィールド。
ヘミングウェイやフィッツジェラルドといった作家と同時代に活躍したこの男は、1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒトラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降りた。
『風の歌を聴け』を読んでいると、是非一度このデレク・ハートフィールドの小説を読んでみたい、という衝動に駆られる。
だけども残念なことに我々はデレク・ハートフィールドの小説を読むことができない。
なぜならデレク・ハートフィールドは村上春樹の頭の中でつくられた架空の小説家だからである。
のちに日本を代表する小説家となる村上春樹のデビュー作はこの架空の小説家の生涯やアフォリズムの記述からスタートする。
群像新人文学賞を受賞したこのデビュー作の冒頭に描かれたデレク・ハートフィールドの生き様はまるで村上春樹氏の小説家として生きていくことに対する覚悟のように読むこともできる。
物語は29歳の既婚者となった「僕」が21歳の頃を追想する回顧録として進む。
それは三番目のガールフレンド「仏文科の女の子」の自殺をめぐる「僕」の記憶である。
1970年の8月8日から26日までの18日間のひと夏のお話。
登場人物は実に少ない。
主人公の「僕」と友人の「鼠」、小指のない女の子とバーのマスターのジェイの四人だけである。
ストーリーもいたってシンプル。
「仏文科の女の子」に対する愛の屈託を抱えたまま「鼠」や「小指のない女の子」とひと夏を過ごす物語。
ただ、そういう読み方をしない読者も多くいるのが村上春樹作品の特徴なのかもしれない。
僕は鰺の最後の一切をビールと一緒に飲みこんでから皿を片付け、傍に置いた読みかけの「感情教育」を手に取ってパラパラとページを繰った。
「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」
「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
生きる象徴のような食事のシーンと死んだ小説家の話。
この小説の中では常に背反するような事柄が表裏一体、もしくは隣り合わせで横たわっている。
「僕」とは何もかもが対照的な友人「鼠」。
いなくなってしまった「仏文科の女の子」といなくなってしまいそうな気配を纏う「小指のない女の子」。
物語冒頭の鼠の「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」というセリフと、物語終盤でラジオから聴こえる「僕は・君たちが・好きだ」というセリフ。
『風の歌を聴け』には合わせ鏡のように互いを映す事象が幾つかあって、そのあたりが《考察好き》の人たちを刺激している。
複雑に読もうと思えばいくらでも複雑に読める小説になっている。
登場人物たちのひとつひとつのセリフや仕草がいちいち意味ありげなので余計そう読めるのだろう。
だけど僕はそういう風には読まなかった。
この小説全体に流れる深刻な(もしくはそんな自分たちに少し酔っている)若者たちの隙間に吹く爽やかな「風」を僕は心地よく感じた。
その風を感じるためだけにこの小説を読み進めたと言っても過言ではない。
夏の静かな夜、ビール片手に読むには最高の小説です(僕はアルコールが苦手なのでアイスティーを飲んだけど)。
日本を代表する現代作家の産声のような小説全体に流れる「風の歌」を是非一度聴いてみてください。