構想・執筆10年、恩田陸が描く渾身のバレエ小説。唯一無二の舞踊家にして振付家の少年をめぐる4つの物語
PR 公開日:2024/3/31
私がはじめて物語の人物に恋をしたのは、サン=テグジュペリ氏による『星の王子さま』を読んだ時だった。詩的な言葉を奏でる王子さまに、子ども心に強く惹かれた。だが、恩田陸氏の新著『spring』(筑摩書房)を読了後、これまで経験したことのない強い感情を抱いた。これこそが“恋”なのだと、そう断言したいほどには、主人公の存在が私の内側を占拠している。
本書は、著者が構想・執筆に10年を費やした渾身のバレエ小説である。全4章にわたるストーリーにおいて、それぞれ異なる人物が1人の人間を物語る。唯一無二の舞踊家にして、振付家でもある萬春(よろず はる)。彼の成長とほとばしる才能を、彼の叔父やバレエ仲間たちがそれぞれの視点から回想する。全章通して緻密かつ繊細な描写に魅了されるが、最終章の威力は特に圧巻である。最終章の語りは「踊り」と同一で、生そのものが躍動するエネルギーが細部からにじみ出ていた。
“面白い踊りは、それが抽象世界であれ、具象的なものであれ、そこに現れる景色が「生きて」いる。風が吹き、木々が揺れ、人々の感情が、情念が、豊かに息づいている。”
ある章の語り手となる作曲家は、このように述べている。本書で描かれる人物たちにも、同じことがいえる。手で触れられるほどの生の感情と共に、彼らの踊りと生活が物語の中で「生きて」いる。呼吸をするように踊る彼らが、ステップを踏むたびに、高くジャンプするたびに、ゆっくりとした所作で空気をつくり出すたびに、読み手は思わず息を呑む。
春がバレエと出会った経緯は、およそ「運命」と呼んで差し支えのないものだった。もしも春がバレエに出会っていなかったら、彼の人生はまったく違うものになっていただろう。萬春は、間違いなく天才だ。天賦の才、たゆまぬ努力、飽くなき探究心、チャンスを引き寄せる運、「やりたい」を叶える環境。これらすべてが揃って、はじめて人の才能は劇的に開花する。
バレエの世界において、春の存在は圧倒的に抜きん出ている。周囲の嫉妬や羨望が追いつかないほどの高み。そういう場所に、彼は立っていた。だが、春の人生のすべてが順風満帆だったわけではない。春が望む生き方は、特に幼少期においては世間が強いる箱の中に収まりきるものではなかった。枠からはみ出す者への風当たりは、どんな時代も強い。人は、己が諦めた自由を手にする誰かの存在を素通りできぬ生き者らしい。
バレエと出会い、表現の魔力に魅せられ、振付家として生きる道を見出した春は、己自身のための「春の祭典」を作る決意をする。同時に彼の人生は激動していくが、その先で彼がたどり着く境地、彼が踊り、支配する舞台の引力に、私は幾度となく圧倒される。
“踊ることは、祈ることに似ている。”
彼の踊りは祈りで、叫びで、沈黙で、歓喜で、絶望で、闇で、光だった。たった1人の人物をこんなにも奥深く紡いだ物語を、私はほかに知らない。名前に一万もの春を持つ少年は、瞬く間に私を魅了した。読みはじめたら、溺れる。その感覚を愛せる人が本書と出会えたなら、恐れを抱くほどに豊かな読書体験を味わうことができるだろう。
文=碧月はる
※本書の初版には、限定特典として掌編小説『反省と改善 spring another season』二次元バーコードが付属しています。