『チ。』魚豊氏 最新作『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』で「陰謀論」を描いた理由。恋愛要素も盛り込まれた“新境地”の裏側を語る【魚豊氏インタビュー】
更新日:2024/3/13
『ひゃくえむ。』『チ。―地球の運動について―』と、ひとつのことに対して人生を懸けて取り組む人々の姿を描いてきた魚豊氏。そんな魚豊氏が最新作『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』で描くのは「陰謀論」と「恋」。あまりにも衝撃的な題材と、突飛な組み合わせに連載開始時から大きな話題を飛んだ本作。単行本2巻の発売を記念して魚豊氏にインタビューを敢行。そこから見えてきた「陰謀論」と「恋」の原点、そして本作で描きたいこととは?
「陰謀論」と「恋」が繋がった瞬間
――いつ頃から『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』の構想を練られていたのでしょうか。
魚豊:『チ。―地球の運動について―』が完結する少し前くらいでしょうか。連載はまだ続いていましたが、作業自体は終わっていたので、その頃から次回作について考え始めるようになりました。
――完結直前のインタビューでは「次回は社会的に間違っているものに熱中しちゃったらどうなるか、みたいなことを描きたい」と仰っていましたね。
魚豊:今まで描いてきたのが「100m走」や「地動説」などそこまで間違っていないと言いますか、現代の社会では受け入れられているものに熱中していく人たちの物語でした。だから今回は、社会的にあまり受け入れられていないものに熱中する人の物語に挑戦したいと思ったんです。
最初に浮かんだのが「荒らし」の人たちの物語。「荒らし」のコミュニティのなかに師弟関係があって、それを「週刊少年ジャンプ」の友情努力勝利のフォーマットで描いたら面白いかなと。ただ、そこからいくら考えても勝ち筋が見えなかったんですよ。
――陰謀論だと勝ち筋が見えたと。
魚豊:もともと陰謀論には興味があったんです。ちょうど次回作の構想を練っている時がコロナ禍の真っ最中だったので、陰謀論がよりネットに溢れていた時期でした。その頃に、「現代思想2021年5月号」(青土社)の陰謀論特集で石戸諭さんの「陰謀論者の「不安」」という論考と出会いました。そこで「陰謀論に陥っている人たちは“認知バイアスの根本的帰属の誤り”というものにはまっている」と仰っていて。それは簡単にいうと「深読みしすぎてしまう」ということなのですが、これは恋愛に置き換えると誰でも起こり得ることなんじゃないかと思ったんです。個人的な感情である恋愛と、政治的な姿勢である陰謀論。この2つが直線的に繋がりそうだという直感があって、その方向性なら4巻くらいで完結する物語ができそうだと、”筋”が見えたんです。
陰謀論をテーマにする上で描くことと描かないこと
――陰謀論をテーマとして取り扱う上で、描くことと描かないことの線引きはありますか?
魚豊:選んだテーマに対して何を描くか描かないのかは、作家のセンスが一番問われるところですよね。まず、陰謀論者の方を嘲笑するような描き方は絶対にしない、自分たちと地続きな存在であるという描き方を目指しました。もう一つが、ワクチンや実在の政党名など、現実の社会情勢を描かないということ。もしも実在のものを出すなら、すでにエスノグラフィやルポルタージュがありますし、こちらを読んだ方が面白いし心に迫るものがあると思うんです。
――エスノグラフィやルポルタージュとは違うアプローチで陰謀論を描きたかったと。
魚豊:現実の社会情勢を踏まえて描くなら、すでに素晴らしい作品がたくさんあります。そういったものの真似をして小さなものを作るより、もっと自分の自由なフィクションの世界で陰謀論に迫りたいという気持ちがありました。アリストテレスも「フィクションは個別ではなく、普遍を書く。」と解釈出来るような事を言っていますし、僕はその姿勢が大好きなんです。社会問題や個別具体的な”陰謀論そのもの”の話ではなくて、ある状況下において”陰謀論を信じてしまう人”を描く事で、本質的なところに焦点を当てたかったんです。
――そのために取材などはされましたか?
魚豊:表紙の制作協力もしていただいてるオカルト・スピリチュアル・悪徳商法研究家の雨宮純さんと、名前を出していいのかわからないので、ここでは伏せますが新聞の記者さんや、陰謀論を研究されている政治学者の方などに質問やインタビューさせていただきました。
あとは、その当時刊行されていた陰謀論関係の本で、目についたものはだいたい読んだと思います。それと、個人的な体験もちょっとだけ影響しています。僕の知人が、当時流行っていた”ある陰謀論”に対して、反論していたのですがその反論がけっこう変な論拠(と、個人的に感じる物)に依っていて、かなり破綻していたんです。立場的には僕もその方と同意見だったはずが、陰謀論に反論したいあまりに頑固になって、怪しげなソースに手を出してしまっている様子を見て、なんだか逆に陰謀論っぽいなと感じたんです。この経験から、何か一つの考えに熱狂的になって取り憑かれるという思考のスキームは、どの立場、主張であろうと起こりうるんだと、実感しました。
『アオのハコ』から得たラブコメのヒント
――本作のもう一つのテーマである「恋」についてお伺いします。今回初めてのラブコメに挑戦されたということで、実際に描かれてみていかがでしたか?
魚豊:実は僕自身あまりラブコメを読まないので、かわいいセリフやシュチュエーションを考えるのが得意でなく、すごく不安だったんです。でも、『アオのハコ』(三浦糀)を読んだ時に、主人公が恋愛的に好きになる相手の、”かわいいシーン”より、”かっこいい”シーンが胸キュンシーンとして提示されていて、それがとても腑に落ちて、なるほど!コレなら目指せるかも!と自分もその方向性で飯山さんを描こうと指標にました。
――飯山さんが凛としているかっこいい系のヒロインなのは、そういった経緯があったんですね。
魚豊:あとラブコメのラブの部分を描くにあたって「誰かを好きになることで、それまでの自分からは遠かったものまで好きになる」という状況がすごく重要だと考えていました。僕のようなものが今更何かいうのは口幅ったいですが、恋愛の良いところって、その人の好きなものまで好きになるところ…つまり自分の世界が広がるところだと思うんです。例えば、渡辺くんが飯山さんを好きになることで、彼女の好きな景色が好きになるとか、ラブコメを描くにはそういうシーンこそが大切。かわいい、かっこいいとか、相手との関係性だけじゃなくて、その人の視野と自分の視野が混ざって行くところが本質的に凄いことなんだと思います。でもそれはただ相手から影響を受けて、コピーしてるわけじゃなくて、より新鮮で、よりオリジナルな自分になっていっていて…これをすごく描きたかったんです。
――本作はラブコメ以外にも、渡辺くんが飯山さんとのデートで着ていく服をフリマアプリで値切るなど、これまでの作品にはないコミカルなシーンも散りばめられています。
魚豊:陰謀論というテーマで描くにあたって、シビアにしすぎないというのもすごく重要でした。ひたすら辛くて陰鬱としていて、陰謀論に足を踏み入れていくという、そういう描き方にはしたくなかったので、あくまでもフラットな気持ちで読めるように心がけているつもりです。でも、コミカルなシーンも決して嘲笑ではなくて、いじらしいみたいな。自分たちと似ていると感じる、日常的な情けなさをギャグとして出力するよう意識しました。
「屈辱」が描けなければ全てが崩れる
――「陰謀論」と「恋愛」の原点についてお伺いしてきましたが、本作を描く上で欠かせないものはなんだったのでしょうか? 『チ。―地球の運動について―』の時は「痛みを感じる暴力描写が描けるか」が重要だったとインタビューで仰っていたのを拝見しました。
魚豊:屈辱です。これが描けなければ全てが崩れるなと。屈辱は人を支配するすごく大きな感情で、屈辱から生まれる不安みたいなものを刺激して陰謀論は発展していくのだと思っています。でも、ここで重要なのは、社会的に弱い立場にある人が陰謀論に信じるという話ではなくて、誰にでもその可能性はあるということ。それを理解した上で、陰謀論を信じる人の土台として屈辱が重要だと思いました。あともう一つは飯山さんのかっこよさ。彼女は鼻持ちならないところもありますが、読者から嫌われたら終わりだと思ったので、ちゃんと“かっこいい人”というつもりで僕は描いていました。
“痛み”でつながる渡辺くんと読者
――ここからは各登場人物たちについてお伺いしていきます。まず、渡辺くんですが、一歩間違えると陰謀論者の方を嘲笑するような見え方になってしまいます。彼を描く上で、大切にされていることはありますか?
魚豊:渡辺くんに対して「痛々しい」とか「自分の過去を思い出して恥ずかしくなる」というコメントをよくいただくのですが、実はこれがすごく重要なことだと思っているんです。例えば、前作『チ。』において、ノヴァクというキャラクターは目の前の”異端者”達に拷問を行いますが、そこに全く後ろめたさを感じていてない。それは彼が暴力を振る際に痛覚を遮断しているからです。目の前の存在は悪魔と通じてる他者であって、”痛み”すら共通してないと。
でもそれとは違って、本作において読者が渡辺くんを見て何か一つでも“痛み”を感じてくれたとしたら、それはきっと自分自身にも何か思い当たることがあるから。その瞬間、渡辺くんと自分の痛覚や痛点を共有しているんです。陰謀論者は全く会話ができない他者なのではなく、自分と似たような痛みを抱えている。つまり、自分と地続きの存在であるということを描きたかったので、こういうコメントをいただけたのはすごく嬉しかったです。
――2巻で渡辺くんはさらに「FACT」に傾倒していきますが、だんだんと活力に満ちていき、顔つきもかっこよくなっていきます。その表情を見ていると、彼にとって「FACT」と出会ったことは良かったことなのではないかと感じてしまいます。
魚豊:渡辺くんを通して、「どんな経験も無駄じゃない」という理想論を描きたかったんです。最近だと、何か問題が起きた時にそれに関わる人や作品を排除する動きがあります。勿論、非行によって問責されるのは当然ですし、そうであるべきです。そして、もしかするとそういった人や作品から影響を受けていた”自分”も、なにか思い直さなければならないかも知れない。だとしても、その時にその作品や人から得た感情は本物です。それは絶対に無くならない。だから、影響を排除して忘却するのではなくて、かと言って開き直って居直るわけでもなくて、引き連れて、改善していく。反省して取り込んで、前に進む。そういう道はあるんじゃないかと。この作品において、それは「渡辺くん」と「陰謀論」の関係性です。こういうあり方は現実には難しいかもしれないけど、でも、そういう理想を伝えるのがフィクションの魅力であり、大切な一つの力だと思っています。ですので、そういう考えを踏まえて本作を作劇したつもりです。
「心にまで格差は拡大していない」渡辺くんと飯山さんで表現したいこと
――ヒロインの飯山さんはどのようにして生まれたのでしょうか。
魚豊:実は飯山さんの方が、渡辺くんよりも先にキャラクター像が固まっていたんです。というのも、彼女は僕の知人の何人かを参考にしているんです。僕が立派だなと思う知人たちを全部まとめたのが飯山さん。なので、彼女の方がイメージしやすかったです。
――具体的にどういうところに対して立派だなと感じるのでしょうか。
魚豊:表現が難しいのですが、世の中を良くしようと思っているところでしょうか。僕自身は「世の中を良くしたい!」というマインドは持ってないしょっぱい利己的な人間です。でも、あえてそれを口に出して行動している人たちは、周りから自分がどう思われても、自分が正しいと思うこと、やるべきことをやっている。自分はそんなコミットの仕方はできないから、本当に立派だなと思います。
――飯山さんと渡辺くんは何もかも正反対なキャラクターです。2人の差があまりにも酷だなと感じる時さえあるのですが、なぜここまで差をつけたのでしょうか。
魚豊:まず、本作の大きなテーマとして格差を描きたかったんです。文化的、資本的、肉体的…など、残酷だけれど格差は事実としてある。だけど、それと同時に心というところにまで格差は拡大していないんじゃないか? という希望も描きかった。人を好きになる気持ちが誰しも平等にあるように、何かを感じることに格差はないんじゃないかと。例えば、空を見て美しいと思う気持ちはお金では買えないものです。いや何もポジティブな気持ちだけではなくて、”何か”に”何か”を感じる心は誰しもが持っている。そういった心の平等さを描きたかった。もし何もかも平等じゃなくても、心さえ平等なら話は通じる。説得もできる。僕はそう信じてます。いくら”闘争領域”が拡大しようと、本音は強度を持って伝わる。そう言ったコンセプトから、敢えて社会的な格差を感じるキャラ付けになっていきました。
――渡辺くんと飯山さんが会うシーンではよく夕日が登場します。このシーンで伝えたかったのが心の平等さということでしょうか。
魚豊:そうともいえますが、また別の希望を込めて描いたシーンでもあります。僕自身、綺麗な景色や海を見てもあまり感動しない人間だったのですが、浅学ながら哲学や物理をかじった事で、海の素晴らしさを感じるようになりました。だから、現在の自分の感受性が最終決定稿なのではなく、人との出会いによってどんどん更新されていくものなのだと。そういう希望を描きたかったんです。渡辺くんも最初は金の力しか信じていませんでしたが(というか、それすら信じきれていなかったですが)飯山さんや「FACT」と出会うことで色々なことを思うようになりますし。
ほぼ僕の趣味みたいなシーン? 2巻の見どころ
――先ほどお話していた恋愛の良いところと通じる話ですね。3月12日に発売される2巻では、そんな渡辺くんと飯山さんの距離がさらにぐっと縮まります。最新刊の見どころを教えてください。
魚豊:2巻はもう本当に大好きです。1巻はスロースタートだったのですが、2巻は全部が好み。ラブコメの醍醐味とも言えるシーンがあって、僕的にはもう渾身です。あと、飯山さんと良い感じの雰囲気の平子くんという新キャラクターも登場します。平子くんはもちろん、渡辺くんが彼に抱く感情も好きです。特に、飯山さんと平子くんが映画の批評をしている…という夢を渡辺くんが見ているシーンがあるのですが、もうほぼ僕の趣味みたいなシーンなんです(笑)。全編通して、普通だったら商業誌に載せてくれないような作品だと思うので、これを描けたのは本当に幸運です。
――連載はいままさにクライマックスを迎えていますが、お話を伺っていて、最終的には飯山さんが渡辺くんに影響されていく展開もありえるのかなと思いました。(*取材は2月初旬に実施)
魚豊:ありえますね。人との付き合いは、常に相互作用があるものだと考えています。それがどんなに小さかったとしても、必ず交わるものがある。そう思いながら描いています。
取材・文=ちゃんめい