生誕100年・安部公房『他人の顔』ってどんな話? 爆発事故で顔を失った男を通して考える「顔」と「タイパ」とは
公開日:2024/3/26
2024年は小説家・安部公房生誕100周年。本記事でご紹介するのは、「タイパ重視」の現代社会にもっとも示唆がある作品の一つ『他人の顔(新潮文庫)』(安部公房/新潮社)です。
主人公は「ぼく」。化学研究所の爆発事故で、顔に傷を負ってしまいます。そうすると「まわり」との関係が変化し、付随して会社の役職や、一番近い「まわり」である妻との関係も歪んでいき、「ぼく」は苦悩します。見出した解決策は、プラスチック製の仮面を仕立てあげて、誰でもない「他人」になりすますこと。しかし、「他人」でうまくいってしまったことを、「ぼく」は妬み始めてしまう…。
このあらすじをご覧いただいてもわかる通り、「自分と他者」や「現実と想像」が本作では交錯していきます。顔というのはもっとも目立つ「見た目」でありながらも、そう簡単に信頼をおけるものではないというのは、読者の皆さんもご納得いただけるかと思います。悲しいときに即座にものすごく悲しい顔をする人もいれば、その瞬間は感情を押し殺して、しばらく後に滝のような涙を流しながら悲しむ人も世の中にはいます。
それでもやはり、顔というのは手っ取り早いところがあります。顔の「見た目」を磨けば、生き方も変わるという考え方もありますし、目に見えない内面や「心」という掴みにくいものよりも「見せやすさ」があります。
物語の冒頭で、「ぼく」は人工器官専門の医師・K氏と、このようなやりとりをします。
「しかし、外観よりも、内容を尊重するのは、べつにおかしな事でもないでしょう……」
「容れ物のない、中身を、尊重することがですか?……信用しませんね……私は、人間の魂は、皮膚に宿っているのだとかたく信じていますよ。」
「むろん、譬喩としてなら……」
「譬喩なんかじゃない……」
別の箇所でK氏は「顔というのは表情のこと」であるとも話していますが、逆に「見せられる」表情というのは、「0.1ミリ動いただけでも深遠な意味を持ち始める」「自分と他人を結ぶ通路」と、注意を以って取り扱うべきものとして描写されています。
最近、「食べるのに時間がかかるアメよりもグミのほうが、タイパ重視の若者には人気がある」というニュース記事を読んだことがありますが、タイパ重視の観点からすると、顔というのはどのようなものなのだろうかと筆者はふと考えました。おそらく、とても信頼がおかれているのではないかと思います。
その考え方からすると、0.1ミリ動いて変化する意味は淘汰され、自分と他人を結ぶ通路は「入りやすくて出やすい」ものになるのではないかと思います。本作では、「入りやすくて出にくい」世界観が展開されます。
たとえば「他人」になって妻を誘惑した結果、うまくいったけれども、妻は「他人」が「ぼく」であることをわかっていたという展開があります。想像するだけでも複雑な気持ちになりますが、「入りやすい他人に自分が入っていった結果、自分自身が出にくくなってしまった」葛藤が、物語の中盤近くで展開されます。
たしかに、考えてみれば、誘惑したのが仮面であり、誘惑されたのがおまえだなどという保証は、どこにもありはしないのだ。巧くやったつもりで、あんがい、仮面の手管などとは無関係に、おまえが勝手に誘惑されたのではあるまいか? かといって、いまさらやりなおすわけにもいかず、自分をはげますためにも、仮面はますます誘惑者として、積極的にふるまうしかなかったのである。
こんな葛藤に苛まれるのは是非とも避けたいところです。でも、葛藤が全く無い人生というのは豊かなのか? 「入りやすくて出やすい」距離感で暮らしている中で、複雑難解な出来事が起きたらどう対処するのか? 一番面倒な「入りにくくて出にくい」のは自分自身で、それを乗り越えるには「他人」こそが大事なのではないか?
著者が本書を執筆したときの思いや意図を越えて、本書はそのように現代社会に問いかけているような気がしました。
文=神保慶政