どうしたら頑張らないまま自分らしくいられる? 新年度を迎える今だから考えたい、「おりる」ということ

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/27

「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから
「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社)

「最近どうしてる?」と知り合いに尋ねられて、困った経験はないでしょうか(筆者はあります)。何か「引っ越して心機一転して」とか「部署が異動になってやっと新しい仕事に慣れたところで」とか、気の利いた「何か」があれば困った気持ちなど全く感じないでしょうが、「特段何も報告すべきことがない」となったときに、この質問の回答にはやや苦しむことになります。

 ご紹介する『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社)の著者・飯田朔氏はこの質問に「いやあ、何もしてないよ」とさわやかに答えて、逆に質問の聞き手を「え、何もしてないの?」と困らせるセンスの持ち主です。もちろん何もしていないということはなく、ネコにエサをあげたり、ご飯を作ったり、野菜を育て始めたり、語学を始めたりということを飯田氏自身もしているのですが、それが「何か」の回答としてそぐわない気がするという感覚から本書はスタートします。

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 著者は2018~2019年に「日本から距離をおく」という以外、特段目的なくスペインで留学を経験し、その中で「社会が提示してくるレールや人生のモデルから身をおろし、自分なりのペースや嗜好を大事にして生きる」という、「おりる」思想に磨きをかけました。そんな著者がパッと思いつく「何か」というのは、一般的スタンダードからすると「なんでもないこと」としてカテゴライズされてしまいがちです。

 一般的な「何か」というのは、「ネコにエサをあげたらいつも通り食べた」とか「野菜を育て始めたけどまだ芽は出ていない」とか「語学を始めたけど特に目的はない」というようなことではなく、何か大なり小なり結論、発見、狙いといった類の話が求められるからです。

 1989年生まれの著者は、「サヴァイヴ」をかけて中学生が抗争を繰り広げる『バトル・ロワイアル』やクマのプーさんになかなか大人が協力しない『プーと大人になった僕』などの映画作品や、朝井リョウ氏の一連の小説などを参照しながら、「なぜ我々はそんなにも頑張る必要があるのか?」「そのまま、ありのままでいいはずなのでは?」と読者を揺さぶります。

同年代の「生き残れ」と「何者か」というふたつの考え方に接する中で感じたのは、そういった考えは、人に「スキルを身につけろ」と迫ったり、中身のないロールモデルを押し付けたりしてくる点で、いわば個人に対して「あとづけ」の技能や目標を強要する考え方であり、根本的なところでは人が元々持っている、その人なりの存在意義や権利といったものをないがしろにする考え方なんじゃないかということだった。

 朝井リョウ氏の小説に関しては、「自分」と「世界」(「世界」があって「自分」があるのか、「自分」があって「世界」があるのか?)、「好き」と「世界」(「好き」が「世界」によって抑制されているか、「好き」が「世界」を変えるほどの力を持っているか?)という基準が、ストーリーを参照しつつ紹介されます。これらの相克から「選択と行動」が導き出されるのが同氏の小説の人気ポイントですが、著者は必ずしもそこに同調しません。

 登場人物が何かを「諦める」にしても依然として「選択」をさせており、「おりられなさ」を受け止めるのではなく、「『おりる』選択をすること」を強いる姿勢がみられるというのが著者の見解です。これは「朝井氏の選択・行動主義からの『おりられなさ』」であると著者は指摘しています。

これは、少し考えてみれば、日本であろうとスペインであろうと、どこでも同じことがありうるといまは思うが、そのときのぼくには、日本を「おりた」つもりで行った先のスペインで、自分の国を「おりられない」人たちと出会ったことに考えさせられるものがあった。人が国や社会で生活を営む中で抱えざるを得ない「おりられなさ」という感覚が、自分の中に実感としてすとんと落ちてきたのである。

「おりる」ことができたほうが偉いとか、そういうものでもないかと思いますが、色々抜きにして「自分はどうしたいのか」をまずは考えてみる。実際に行動に移さずとも、それだけでも「ああそう考えてみてもいいんだ」とスッキリするところがあります。題名のマイルドさと比べて、中身はかなりディープで、気分を一新させたい春にピッタリな一冊ではないでしょうか。

文=神保慶政