肉じゃがや酢の物にドバドバ「すき焼きのたれ」を入れる定食屋? 離婚を切り出した夫を虜にした定食屋を巡る感動の物語
PR 公開日:2024/3/30
すべてにおいてまじめに取り組む、がモットーの沙也加は、夫から唐突に離婚を切りだされる。その理由は、食事をしながら酒を飲むことを好まない自分といると、息が詰まるからだという。夫を虜にしてしまった定食屋「雑」へ沙也加は偵察にいくが……。
『三千円の使い方』や『ランチ酒』シリーズなどで人気の原田ひ香さん。人の心の機微や男女のすれちがい、生きることの哀歓をじっくり、しんみり伝える作風が多くの人に愛されている。本作『定食屋「雑」』(双葉社)の第一話になっているのは、2021年に刊行されたアンソロジー『ほろよい読書』(双葉文庫)に収録されている同名短編。夫との離婚に悩む女性が定食屋で働くうちに、新しい生き方を見つけていく内容だ。2話以降はその続きが描かれた長編となっている。酒の酔いにたとえるなら、短編版の楽しさは“ほろ酔い”で、長編版のこちらは“陶酔”というところだろうか。それぞれに旨みがたっぷり詰まっている。
「雑」の料理の特徴は大雑把で甘みが強いこと。それもそのはず、肉じゃがにも煮っころがしにも酢の物にまで「すき焼きのたれ」で味をつけているからだ。こんな雑な料理に私は負けてしまったのか……とショックを受けるも、もしや夫はこの店で他の女性と出逢ったのかもしれない。それを調べるため(加えて金欠を補うため)「雑」でアルバイトをすることに。
そして、もうひとりの主人公が「雑」の店主の“ぞうさん”こと、みさえだ。料理と同じく大雑把でぶっきらぼう。七十代の老骨に鞭打って一人で店を切り盛りし、不愛想な表情の奥に繊細さを隠している。
対して沙也加は几帳面で、細かいところが気になる性格。町の定食屋で働くどころか、客として「雑」の暖簾をくぐることにすら最初はひるんでいた。雑なぞうさんと細かい沙也加。水と油のようなこの二人、はたしてうまくやっていけるのだろうか……と、読みながらハラハラしてしまうのだが、意外にもいい組み合わせとなってゆく。
おそらくそれは、お互いに距離感を適切に意識して接しあっているからだろう。馴れ馴れしくしすぎず、さりとて気を遣いすぎず。性格だけでなく年齢も生き方もまるで異なるからこそ、そのちがいを踏まえたうえで相手を尊重し、ときにいたわる。こうした人と人の関係を描くのは、この作家の最も得意とするところだ。
物語を彩る数々の料理がまた存在感を出している。コロッケにトンカツ、から揚げといった定食屋の定番メニューが各章の柱となって、大事な役目を務めている。大雑把なようでいて、ちゃんとコツを押さえて作るぞうさんから沙也加は料理だけでなく、いろいろなものを吸収する。
沙也加の結婚生活の行方、ぞうさんの歩んできた歴史、「雑」の常連客の事情。さまざまなドラマを経て、終盤で「雑」はコロナ禍という大きな危機を迎える。精神的にも経済的にも年齢的にも、これ以上続けるのは難しいかもしれない――と、心が折れそうになるぞうさんを沙也加は支える。このくだりがほんとうに感動的で胸に沁みる。
夫の心離れを探るために近づいたにすぎなかった場末の定食屋と、そこの店主。なのに、いつの間にか自分にとって大切な場所、大切な人になっているというふしぎ。人と人の縁はふしぎで尊い。だから人生は楽しい。おもしろい。そんな、ささやかだけど力強い人生賛歌の物語だ。
文=皆川ちか