生誕100周年・安部公房が病床で書いた最後の長編『カンガルー・ノート』。足にかいわれ大根が生えてきた男の話

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/16

カンガルー・ノート"
カンガルー・ノート』(安部公房/新潮社)

「足にかいわれ大根が生えてきた」というなんとも奇妙な導入の物語『カンガルー・ノート』(安部公房/新潮社)は、著者の生誕100周年という明快なタイミングこそ読み時なのではと思います。本記事ではなぜ「カンガルー」と題名に付いている物語のキーエッセンスとして「かいわれ大根」が出てくるのかに関する見解を中心にお伝えできればと思います。キーワードは「個性」です。

 カンガルーというのは生物学的に有袋類といわれます。ぬいぐるみとして考えると他の商品と差別化がしやすく、ピョンと跳ねるし、「かわいい」と言われやすい。しかし、生物学的に見るとカンガルーをはじめとした有袋類というのは、意外と冴えない存在であることが本書の冒頭で明らかにされていきます。

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「……たとえば、リスの背の縞模様、けっこう明瞭なうえに、ちゃんと個体差が識別されます。でもフクロリスの縞はぼやけていて、個体差もないにひとしい。それからフクロネズミ、動作もけっこう敏捷だけど、ほんものの鼠にはとうていかないません。有袋類というのは、結局のところ、真獣類の不器用な模倣じゃないんでしょうか。その不器用さが、一種の愛敬になって、身につまされるというか……」

 このような前提のもと、本書の題名『カンガルー・ノート』という響きを聞くと、どのようなイメージが湧くでしょうか。カンガルーが描いてあるノートなのか? はたまた、有袋類のようにポケットが付いたノートなのか?

「カンガルー・ノート」という言葉の発明は、本書の冒頭で、文具メーカーの商品開発部門に勤めている登場人物が月2回新製品のアイデアを「提案箱」に入れるということを要求されている流れでなされます。それがどういうものなのか、詳細はそこでは明かされません。しかしその後、足にかいわれ大根が生えてくるという謎の現象が生じます。著者は戦後日本の前衛文学の代表格ですが、「個性」というキーワードを飛び石に、「かいわれ大根」というシンボルに物語を自然に飛躍させます。

「かいわれ大根は植物の有袋類なんじゃないか?」という意味深なセリフが、ある登場人物から発されます。もちろん、かいわれ大根には「袋」は付いていません。「大根になりそこなった大根」みたいなものという意味なのか? 「1本の個性的な大根」というよりも「たくさんの個性のない大根の集まりみたいなもの」という意味なのか?

 ここで本作の制作背景について少し触れておくと、本作は1991年に「最後の長編作品」として病床で書かれた作品です。自由が利かなくなった「没個性的」とも感じてしまえる自分の体を眺めながら、相反するようにピョンと跳ねるカンガルーや、ピョコっとひとりでに増殖するように生えてくるかいわれ大根のイメージに、ある種の自由や憧れを著者は感じたのかもしれません。

「嫌いなんですか、カンガルーが?」
「個体の識別には苦労させられるらしい。個性に欠けているんだってさ。君なんか、あんがい似ているんじゃないの」
「いちど食べた事あります。ジャンプ・ステーキって言うんだ、鶏の腿肉みたいで、確かに癖はなかったな……つまり、ぼくもカンガルーみたいに、没個性的だってことかな?」

「個性」というのはより具体的には「確からしさ」ということではないかと筆者は感じました。著者の他の作品にも顕著ですが、本書では新聞記事・通達・広告など印字・通知・掲載されるものが、人間の個性を上回る「確からしさ」を持っているように、インパクトと唐突さを持って登場します。著者がSNS時代を生きたらさらに違う「◯◯ノート」や食べ物が身体から生えてくる話が書かれたのではないか。そんなふうについ想像してしまう一冊です。「カンガルー・ノート」と「かいわれ大根」に、橋を渡すお手伝いに本記事が少しでも役立てば幸いです。

文=神保慶政