新しい草履を買いに行かなくちゃ/きもの再入門⑩|山内マリコ

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/25

きもの再入門

新しい草履を買いに行かなくちゃ

 一度は情熱を傾けたきものから、すっかり遠ざかってしまっていた。数え上げればきりのないその要因の一つに、草履があった。

 わたしが持っているきものの履き物は、三つだ。一つは「花魁なのかな?」というような、朱塗りのぽっくり。もう一つは底がぼろぼろに削れて久しい下駄。そしていちばんまともに稼働しているのが、鼻緒にビーズがあしらわれた、黒いエナメル草履。

 

 さすがに下駄はもうだめになっているので処分し、ぽっくりは下駄箱の奥深くに仕舞い込んでいる。仕事できものを着るときは、エナメル草履に頼ってきた。つまり、いつも同じ草履を履いていた。

 いつも同じ草履……。このことはわたしの中のきもの熱を、文字通り、足元から冷ましていた。なにしろ十年以上前に買ったものなので、耐用年数的にも心配である。いつ鼻緒がブチッと切れるかわからず、不安でならないまま、でもこれしかないので、惰性で履いていた。

 

 ならば草履を新調しなさいよと思われるだろうが、これがまた、なにを買ったらいいかさっぱりわからない。草履といえば浅草にある〈辻屋本店〉だ、いやいや京都の〈祇園ない藤〉だ等、きもの好きはそれぞれ贔屓の履き物屋さんがあるらしい。ところが困ったことに、お店を訪ねてずらっと並ぶきれいな草履を見ても、わたしは「これだ!」と思うものを見つけられなかった。朱塗りのぽっくりを見たときの「ギャー可愛い!」というテンションに、草履ではならない。物として、欲しいという気持ちをそそられないのだ。

 そろそろ買い替えたほうがいいよなぁと思いつつ、なにしろ使用頻度も低いので、この黒いエナメル草履一足で凌いできたのだった。

 

 ところがある日、きものの撮影に備えてエナメル草履を出したところ、けっこう豪快にベリッと、底が剥がれてしまった。ついに本格的に壊れてきたかと嘆息しつつ、心の隅っこで「やった! これで新しいのを買う口実ができた!」とも思う。草履の新調に向けて弾みのつくような出来事だと内心歓迎したものの、ネットを見ると草履の裏が剥がれるのはよくあることらしく、ボンドで接着すればOKと書いてあった。

 うーん。とはいえ、遠からずこの草履がだめになるのは間違いない。これはもうさすがに新しい草履が必要だろう。とりあえず撮影の予定までには用意しておきたい。悠長にお店に足を運んでいる余裕もなく、ネットに頼ることにした。

「カレンブロッソ一択です」

 きもの好き仲間から、〈菱屋カレンブロッソ〉の「カフェぞうり」が歩きやすい、という話はちょくちょく聞いていた。公式サイトを見るとたしかに商品が充実しているし、信頼できそうな感じだ。急ぎだったこともあって、無難な白の、在庫アリの草履を一足、カートに入れて注文してみた。

 届いた草履をさっそく足慣らしのつもりで履き、きもの姿で神社へ行った。前回書いた初詣のとき、履いていたのがまさにこのカフェぞうりだ。箱に入っていた注意書きにあったとおり、ちょっと鼻緒のあたりがきつく仕上げられているので、だんだん親指の股が痛くはなってきたものの、これは慣れたらすぐ平気になりそうだ。というわけで、まあ、買ってよかったな、くらいの気持ちだった。ところが!

 

 また別の撮影で、今度は例の黒いエナメル草履を履いて外を歩いた。そして三メートルほど進むなり、「アッ!」と全身を電流が走った。……めちゃくちゃ歩きにくい。底はちゃんと接着されているものの、踵が草履の台からかぱかぱと上がるのが、なんともいえずストレスなのだ。

 長年愛用してきたこの黒いエナメル草履。ずっと買い替えなきゃと思ってはいたけれど、別に不具合があったわけでも、歩きにくいと思ったわけでもなかった。底が剥がれても、見事に復活していた。

 ところが、カレンブロッソのカフェぞうりを履いたことで、逆に、このエナメル草履の欠点に気づいたのだった。つまりそのくらい、カフェぞうりは、歩きやすかった。

 

 草履は足の大きさよりもちょっとだけ小ぶりなものを選ぶこと、足袋も同様。

 これもまた着付け教室で教わった、基礎的な極意だ。けれど草履は形が小判型、鼻緒が押さえているのは足の前方のみなので、歩くときはどうしても踵が浮き上がる。それが普通だと思っていたのだが、カフェぞうりは足にビタッと吸い付くほど一体化していて、カパカパすることはない。まるでハイヒールとスニーカーくらい、歩きやすさが違った。

きものリハビリ

 こうしてようやく準備が整った。

 戴き物きものと、自分で買ったアンティークの帯揚げをコーディネートし、足元はカレンブロッソのカフェぞうり。自分で着付けして、神社へ初詣。さらっと書いたけれど、わたしのなかでは一大事である。着付け教室で師範資格をとってから早十余年……、昔取った杵柄とはこのことである。汗をたらしながら可動域の狭くなった肩を回して、なんとか帯枕を背負った。半ばパニックになりながら帯の手先をピッと、角にくるよう後ろ手に調整して、帯締めをぐっと締めて完成。数時間後、着崩れすることなく無事に帰って来られたとき、やればできるじゃんと、ちょっと感動した。

 こうしてきものリハビリの成功体験を、一つ積み上げた。

 

 さらに別の日、きもの雑誌の撮影へ、自分で着付けして、現場まで出かけた。

 普段は洋服で行ってスタイリストさんに着付けを任せているのだけど、今回は控室の場所を確保するのが難しそう。そこで初詣で自信をつけたわたしは、セルフで着て行きますと買って出たのだった。

 正直かなり緊張した。そもそも朝に弱いので、起きられるか不安だ。しかも電車の時間までに着付けを終えられるか、まったくの出たとこ勝負。

 わたしはこのミッションも、無事にクリアした。自前の着付けで撮影に臨み、そのまま別の用事にも出向き、電車で帰宅。さすがにへろへろになったけれど、これも大きな成功体験になった。

 

 さらには某日、バレエ鑑賞に招待していただく機会があり、これにも自分できものを着て行くことにした。二月だったので、母の梅小紋を選んだ。金糸が織り込まれていてずっしりと重く、着付けが難しい。そして着るだけでなく、客席で長時間じっとしていないといけない。休憩時間にトイレに行くなどの関門もある。かなりハードルの高いお出かけである。しかしわたしはこれもクリアした。ハレルヤ!

 初詣、仕事、バレエ鑑賞。ホップ・ステップ・ジャンプと、ちょっとずつ成功体験を重ねて自信をつけ、気がつけばわたしはすっかり、きもの愛好者として、現役復帰していた。ああ、もっときものが着たい。次にきもので出かける日が楽しみでならない。

再入門、完了!

 きものユーザーとして引退同然だった十年は、年齢でいうと、ちょうど三十代。仕事がようやく軌道に乗ってきたところへ私生活でも結婚があったり、なにかと忙しなかった。そういう女性は多いだろう。二十代はまだまだ助走期間であり、三十代こそ人生の本番。そして三十代の女性はえてして、過重労働になりがちだ。

 きものにハマったばかりの、まだ二十代だったわたしに母が言っていた言葉を思い出す。

 

「マリコ、結婚したら自分のことする時間なんてなくなるから、いまのうちに好きなことをどんどんやっておいた方がいい。どんどんやりなさい」

 

 たしかにその通りだった。結婚すると、余暇時間はほとんどみんな、夫婦の時間に吸収されていった。二人で過ごす時間もそりゃあ楽しい。けれど引き換えに、自分のことをする時間は有耶無耶になり、趣味に打ち込む時間は、呆気なく消滅してしまった。

 思えばこの「きもの再入門」は、かつての自分を取り戻すためのレッスンのようなものだった。あの頃、当たり前にやっていたことなのに、仕事とプライベートに追いやられて、できなくなっていたこと。遠ざかっていた自分の“好きなもの”と再び向き合い、それを取り戻す試みだった。

 

 実は、本当にもう一度きものを楽しめるようになる保証はなにもないまま、連載を書き連ねていた。けれど、ちゃんとここまでたどり着けた。

 四十代になると、否が応でも人生の残り時間を意識するようになり、できたことより、できなかったことのほうが、遥かに多い気がしてくる。自分のちっぽけさが身に沁みる。死ぬときに、あれこれ後悔している様子が目に浮かぶ。

 

 でもだからこそ、ささやかな“好き”を大事にしたり、できなかったことを、できるようにちょっとだけがんばることは、善いことだ。そういうチマチマした営みのなかに、幸せがある気がする。

 四十代、五十代、六十代――。

 この先ますます、誰に憚ることなく、“好き”を謳歌して生きたい。

<続きは本書でお楽しみください>