ドストエフスキーの名作『罪と罰』ってどんな話? 不吉な数字「13」や神聖の象徴「7」が盛り込まれた考察必至の1冊/斉藤紳士のガチ文学レビュー⑤

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/20

罪と罰
罪と罰』(ドストエフスキー/光文社)

「読書好きなら読んでおかないと」と言われる小説の代表格、それがフョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』ではないでしょうか?
ところが実際は読破した人が少ない小説でもあります。
その原因は何か?
まずは、文庫版にして600ページほどの分量が上下巻というシンプルな物量の問題。この長さに怯む人は多いと思います。
そして、いざ読み進めていくと打ち当たる大きな壁。それが「同一人物に名前いっぱいある問題」です。
例えば1ページ目で「ルフィ」と呼ばれていた人物が次ページで「悟空」と呼ばれていて、さらに次ページで「まる子」と呼ばれていたら皆さんはどう思いますか?
そこまで極端ではないにしろ、実際主人公のラスコーリニコフは作中「ラスコーリニコフ」「ロージャ」「ロージカ」などさまざまな呼称で呼ばれます。
確かに実生活でも例えば『坂本さん』という人が「坂もっちゃん」と呼ばれたり、「坂もっさん」と呼ばれたりするので致し方ない部分もあると思います。
ところがこの作品では、作者であるドストエフスキー自身がラスコーリニコフと書いたりロージャと書いたりするのです。
「いや、お前は統一しとけよ!」と思うのですが、このあたりの小説としての「小さな瑕」のようなものも実はこの作品の魅力なのではないか、と思っています。そのあたりのことは後で説明するとして、ここで『罪と罰』の簡単なあらすじを紹介します。

物語の舞台はサンクトペテルブルク。
頭脳明晰な大学生のラスコーリニコフは、学費も家賃も滞納してしまい、金貸しの老婆アリョーナのもとを訪れます。しかし、アリョーナははした金しかくれず、憤慨したラスコーリニコフは「天才は人を殺してもいい」という考えのもと、アリョーナを殺害してしまいます。
さらに、その現場を目撃したアリョーナの義理の妹リザヴェータまでも衝動的に殺してしまい、ラスコーリニコフは罪の意識に苛まれることになります。

その後も色々な人物がラスコーリニコフを取り巻き、物語は壮大なスケールで繰り広げられるのですが、では、なぜこの『罪と罰』が世界文学史上最重要作品のひとつと言われるのでしょうか?
僕はこの『罪と罰』はいわゆる文学の「幕の内弁当」だと思っています。
文学のおいしいところがギュッと詰まっているからこそ、ここまでの評価を獲得しているのだと思うのです。
罪を犯したラスコーリニコフに社会は、近親者は、愛する人は、そしてラスコーリニコフ自身はどのような罰を与えるのか? といった哲学的なテーマの重厚さ。
殺害に及ぶまでの手に汗握るような心理描写と臨場感を味わえる文章の秀逸さ。
事件の真相を暴こうとする予審判事ポルフィーリィーとの丁々発止のやり取りと推理の匠さ。
ラスコーリニコフと娼婦ソーニャとの純愛、そして人間にとっての信仰とは何か? という問い。
もう一人の主人公ともとれるスヴィドリガイロフの倒錯した愛。
などなどジャンルやカテゴリーを飛び越えた「小説の醍醐味」がごった煮のように詰め込まれた作品なのでこれだけ支持されているのだと思います。
また、これだけのものを詰め込んでいるのにごちゃついたところや破綻がないのもドストエフスキーの筆運びの巧さが光るポイントでもあります。
さらに、現代人が好みそうな「伏線回収」や「考察」も楽しむことができます。
例えば数術的なアプローチもそのひとつです。
「13」という数字は『13日の金曜日』でも知られるようにキリスト教では忌み数字とされています。
この『罪と罰』は13日間(全体は14日間だが、一日の始まりを晩祷〈※キリスト教で夕べの祈りのこと〉の時間とする正教のしきたりに従えば正味13日間)のお話。
さらにラスコーリニコフが住むボロアパートの最上階から屋根裏部屋に通じる階段の数も13階段になっています。
またドストエフスキーは「7」という数字にも拘っていました。
ドストエフスキー自身が通じていたピタゴラス派の理論では7という数字は、神聖・健康・理性の象徴とされています。
物語の舞台は1865年とみられ、始まりの日は居酒屋でのマルメラードフのセリフから7月7日と限定できる。

「六日まえ、はじめての俸給、二十三ルーベリ四十コペイカを、手つかずのまま持ちかえったとき、わたしを可愛いペットって言いましたよ。」

当時、ロシアの官公庁の給料日は月初めと定められていたので逆算すると7月7日になる。
ちなみに『罪と罰』の構成も六つの章と一つのエピローグで合わせて七部構成という徹底ぶりです。
細かい設定ですが、合理主義的とも言えるドストエフスキーのディテールへの拘りこそが『罪と罰』の持つ異様な熱気の要因のひとつなのではないでしょうか。
さらに叙述トリックのような「思い込み」を読者にさせるのが、ラスコーリニコフの犯行を後押しした大きな出来事のひとつである商人夫婦とリザヴェータの会話です。
商人夫婦は「六時過ぎ」にリザヴェータを自宅に招くのですが、商人の訛りがひどく、しかもロシア語では「六時過ぎ」を「第七時間目」と順序数詞を用いた表現をする習慣があるため一時間のズレが生じます。
だから、リザヴェータが留守のはずの時刻に犯行に及び、そこを目撃されてしまうわけです。

さらに『罪と罰』の魅力は計算され尽くした部分のみならず、前述した「登場人物の呼称が統一されていない」といったドストエフスキーの人間味ともとれる不完全な部分が作中から垣間見えるところにもあります。
そもそも『罪と罰』は借金のために悪い出版社と無理な契約をして書いた作品です。
そのため、後半は口述筆記の形をとっていますし、はっきり言って無駄に冗長な場面もあります。
特に後半はラスコーリニコフが全く出てきません。これは物語上やむを得ず主人公が不在なのかと思いきや、暗闇からひょこっと現れ「いや、ずっとそこにおったんかい!」と思わされたりします。これはおそらく話を引き延ばせそうな方向に流れを持っていったために起こった「主役不在」だったのだと思います。
ドストエフスキーが意図するしないに関わらず、このような執筆上での苦悩を感じられるのもこの作品の魅力のひとつです。
そして、この物語自体がドストエフスキーが政治犯として処刑されかけた出来事(ペトラシェフスキー事件)から着想を得たこと、さらに連載前に起きたラスコーリニキ(ロシア正教の一派)の青年ゲラシム・チストフが金品略奪を目的に二人の老婆を殺害したゲラシム・チストフ事件からインスパイアを受けたものだという点においてはジャーナリズムを感じる作品でもあります。

このように、すべての物語、創作、小説の要素を取り入れたような作品だからこそ、後世まで「名作」として語り継がれているのだと思います。
純文学であり、ミステリーであり、推理小説であり、サスペンスであり、考察もできて、エッセイであり、ノンフィクションの要素もある世界文学史上最高傑作の『罪と罰』を是非読んでみてください。

<第6回に続く>

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