生誕100年安部公房の遺作『飛ぶ男』ってどんな話? フロッピーディスクに残された未完の遺作に迫る
公開日:2024/4/12
1994年に単行本が出版、そして30年の時を経て生誕100周年の今年2月に文庫化された『飛ぶ男』(安部公房/新潮社)は著者の未完の作品です。既存の単行本は死後に夫人が原稿に手を入れたバージョンでしたが、今回の文庫版では完全オリジナルバージョンが収録されています。ストーリー自体の不思議な魅力もあいまって発売直後に3刷まで重版が決定し、「いま注目の作品」となりました。まずは物語の導入をご紹介しましょう。
夏の朝、4時5分頃。空を浮遊する「飛ぶ男」が出現する。左手には携帯電話を持ち、耳にあてている。3人の人物がそれを目撃していたが、そのうちの一人は衝撃のあまり発作的にガス圧式の空気銃で「飛ぶ男」を狙撃。2発が命中し……
実験的・難解なイメージがある著者の他の作品と比べて、本作が圧倒的にとっつきやすいのは「携帯電話」が登場する点にあるでしょう。実際、新しいもの好きだったという著者は、早い段階でワープロでの執筆(今では当たり前すぎますが念のために説明しておくと「コンピューターで文章を作成・印刷する」ということ)を導入した一人だったといいます。遺稿はフロッピー・ディスク(こちらも念のために説明しておくと、正方形のスライスチーズのような形状のデータストレージ)に保存されていたそうです。
澄んだ月光を背にして、若い男が飛んでいる。翼がないから、幻覚ではなさそうだ。着古した縦縞のパジャマを風にはためかせ、水平飛行の姿勢である。
「飛んでいるの?」
飛ぶ男が右手の携帯電話を頭上に掲げ、左右に振ってみせた。月明かりのせいだろう、蛍光塗料で隈取りされているみたいだ。
「でも、信じられますか?」
「飛んでいるように見えるよ」
「よかった、すごく冷静ですね」
携帯電話の時代に入っても、やはり「空を飛ぶ」ということへの憧れ、つまり「人間に不可能なこと」に対する著者の強い興味というのは変わらないということが、魔法のような形で昇華されているように思える一節です。
今回文庫版を手にして本作を読む方々の多くは(筆者もそれを前面に押し出して本記事を書いていますが)、『飛ぶ男』が未完だということを知った状態で読むことになるのではないかと思います。ですがもし、未完だと知らずに呼んだら、「完成している」と思ってしまうかもしれないと筆者は感じました。
そもそも「完成」というのは、何を指すのでしょうか。書き終わったら、本当に小説は完成するのでしょうか。人生におきかえて考えてみると(死んだことがないのでわかりませんが)、どんな人生であっても「完成」の瞬間を迎えることはないように思えます。同時収録されている『さまざまな父』を読み切ったときに、特にそう思いました。
「空飛ぶ薬」「透明人間になる薬」とで、後者が選ばれる『さまざまな父』の中のこんな描写から、「未完成性」「不可能性」ということに関して安部公房が日頃から深く観察・考察していることが、父の「完璧性」への執着を以って示されていると感じたためです。
父は極端に寡黙で、自分の職業について語ってくれたことがない。ぼくが勝手に鉄道関係だろうと憶測していたのも、その正確すぎる行動様式のせいだろうと思う。腕時計、懐中時計、小型置時計と、常時三個以上の時計を身につけ、毎朝ラジオの時報にあわせるのが習慣だ。日に三秒以上狂うと機嫌がわるくなる。
また、単行本版の冒頭に中央揃えで書いてある、俳句のようなリズム感の、序文のようなワンフレーズがあります。
ぶつぶつと 呪文のように いつまでも……
これは文庫版ではなくなっているのですが、著者が意識的にか無意識的にか、世の中に最後に投げかけた呪文のような「完成度の高い未完成な物語」の一片です。文庫版と単行本版で違いを探してみるのも面白いかもしれません。
文=神保慶政