働くと読書ができなくなる⁉︎ 恋愛映画に見る「労働と読書」の関係/なぜ働いていると本が読めなくなるのか①
公開日:2024/4/21
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)第1回【全8回】
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」…そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないでしょうか。「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者の三宅香帆さんが、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿ります。そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作品です。
労働と読書は両立しない?
麦「俺ももう感じないのかもしれない」
絹「……」
麦「ゴールデンカムイだって七巻で止まったまんまだよ。宝石の国の話もおぼえてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
絹「読めばいいじゃん、息抜きぐらいすればいいじゃん」
麦「息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」
絹「……」
麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」
(坂元裕二『花束みたいな恋をした』)
生活するためには、好きなものを読んで何かを感じることを、手放さなくてはいけない。そんなテーマを通して若いカップルの恋愛模様を描いた映画『花束みたいな恋をした』は、2021年(令和3年)に公開され、若者を中心にヒットした。私自身は主人公の年齢とほぼ同い年なのだが、面白く観たし、なにより働いている同年代の友人たちが「最近観た映画のなかで一番身につまされたよ……」となんとも言えない表情で感想を語っていたのが印象的だった。実際、ネットでもずいぶん熱心な感想を書く人は多かった。
この映画の主人公は、麦と絹という一組のカップルである。大学生のときに出会い、小説や漫画やゲームといった文化的趣味が合ったふたりは、すぐに恋人になる。しかし同棲し就職するなかでふたりの心の距離は離れていく。とくに会社の仕事が忙しくなった麦は、それまで好きだった本や漫画を読まなくなる。そんな麦に、絹は失望を抱えるようになる。
『花束みたいな恋をした』において、長時間労働と文化的趣味は相容れないものとされる。麦は営業マンとして夜遅くまで働く一方、絹は残業の少ない職場で自分の趣味を楽しんでいる。ふたりのすれちがいが決定的になるのは、絹が出張に行く麦に、芥川賞作家の滝口悠生の小説『茄子の輝き』を手渡すシーン。麦はそっけなく受け取り、出張先でも本を乱暴に扱うさまが映し出される。一見よくある若いカップルの心の距離を描いた物語だが、このストーリーの背後には、「労働と、読書は両立しない」という暗黙の前提が敷かれている。
実際、私の友人たちが「身につまされた」と語っていたのは、麦と絹の恋人関係そのものよりも、麦の読書に対する姿勢だった。「働き始めた麦が本を読めなくなって、『パズドラ』(「パズル&ドラゴンズ」の略称。大ヒットしたゲームアプリ)を虚無の表情でやっていたシーン、まじで『自分か?』と思った」と友人たちは幾度も語った。働き始めると本が読めなくなるのは、どうやら映画の世界にとどまらない話らしい。
私は、この作品を観たとき映画としての作劇や演技の完成度に感嘆しながらも、こう感じた。この映画がヒットした背景には「『労働と読書の両立』というテーマが、現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」という感覚が存在しているからではないだろうか? と。
社会の格差と読書意欲
冒頭に紹介した映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹の対比には、「労働環境が異なる」特徴以外に、もう一点気になる差異がある。
それは麦と絹の階級格差だ。麦は地方の花火職人の息子であり、仕送りが止められる場面も描かれる。しかし絹は都内出身で、親は広告代理店に勤め、オリンピック事業にも関わっている。この出身の格差は、麦と絹の労働の対比にも影響をもたらしている。つまり、この映画は「読書の意思の有無が、社会的階級によって異なる」ことを描いた物語にも読めてくるのだ。
実はこれと同じ話が、Amazon「読書法」カテゴリランキングの1位を飾る『独学大全』にも書かれている。
勉強本を買うほどに、学ぶことに関心を持つことができた者は、それだけ恵まれているということだ。現代では、格差はまず動機付けの段階で現れる(原文注3)。そのことを薄々感じるからこそ、学ぶ動機付けを持てなかった者は「勉強・学問なんて役に立たない」と吐き捨てるだけで済まさず、僻み根性を拗らせて、幸運にも動機付けを持てた〈めぐまれた連中〉に嫌がらせまでするようになる。これに対して、そうした連中を見下したい〈意識の高い連中〉は、自分が学ぶ動機付けを持った人間だと思いたい一心で、あれこれの勉強本を買い漁る。
(原文注3:苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会へ』有信堂高文社、2001年)
つまり読書しようと思う意思の有無に、社会の階級格差が影響を及ぼしている、ということである。
もちろん、『花束みたいな恋をした』の麦が「スマホのゲームならできるけど、本や漫画は読めない」と述べたときの「本や漫画」は、勉強というよりも文化的な娯楽、という意味だ。しかし『独学大全』が述べる「勉強・学問」と、『花束みたいな恋をした』の指す「ゴールデンカムイ」や「宝石の国」が離れたものであるとは私には感じられない。というか、ほぼ同じもの──自分の余暇の時間を使って文化を享受しようとする姿勢──だろう。
『花束みたいな恋をした』の麦と絹の、文化的趣味に触れる姿勢の背後にある階級格差は、『独学大全』の指摘する、勉強・学問に触れる姿勢の背後にある階級格差と同様のものではないだろうか。そしてそれがどちらも2020~21年に指摘された問題であることは、決して偶然ではないだろう。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る」……と詠んだのは明治時代の石川啄木だったけれど、現代でもやっぱり、はたらけどはたらけど、暮らしは楽にならない。それどころか、私たちは本を読む余裕さえなくなっている。暮らしは社会の格差を反映するし、その暮らしは本を読む時間すら、手に入れさせてくれない。
<第2回に続く>