インド経由日本行きが主流だったネパール人コックは柔軟な労働力が重宝される/カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」③

社会

公開日:2024/4/29

カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(室橋裕和/集英社)第3回【全7回】

 いまや日本中で見かけるようになった格安インドカレー店。そのほとんどがネパール人経営で、いわゆる「インネパ」と呼ばれている。なぜ、格安インドカレー店経営者のほとんどがネパール人なのか? どこも“バターチキンカレーにナン”といったコピペのようなメニューばかりなのはどうしてなのか? そもそも、「インネパ」が日本全国に増殖したのはなぜなのか? 背景には、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさや、海外への出稼ぎが当たり前になっている国ならではの悲哀に満ちた裏事情があった。『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』は、どこにでもある「インドカレー店」から見る移民社会の真実に迫った一冊です。

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カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」
『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(室橋裕和/集英社)

インド経由、名古屋行き

「生まれはバグルンです」

 ネパール中部の観光都市、ポカラにも近いガンダキ州バグルン郡の、ガルコットという村の出身だ。中部ヒマラヤ山脈に抱かれた山深いところで、なかなかに暮らしはたいへんなようだ。このバグルンやガルコットという名を、このあとの取材で僕は聞き続けることになる。

 エベレストやアンナプルナ連峰といった外国人観光客の多いトレッキングルートからも外れ、これといった産業のないバグルンは古くから出稼ぎ頼みの土地だったそうだ。多くの村人が山を離れて、国境を越えてインドに仕事を求めた。タパさんもそのひとりとして、なんと13歳のときにインドに渡り、首都デリーで働いていた。

「コックではなくて、掃除や洗濯や、そういう仕事をずっとしていました」

 インドで肉体労働に従事しているネパール人は多い。子供の姿もよく見る。僕がインドをよく旅していた90年代でも児童労働は珍しくもなかったし、タパさんが子供のころ、70年代はもっと当たり前だったろう。街角の安食堂や安宿に入っても小間使いの子供が働いている姿をどこでも見たものだ。あの中にはネパール人の子もたくさん交じっていると聞いたことはあるが、タパさんもそのひとりだったのだろうか。

 一度は東部のアッサム州でも働いたタパさんは17歳のときに再びデリーに戻り、それからはずっとインド料理のコックとして働いてきた。そして24歳のころに、新聞で「アクバル」の広告を見つけ、運命が大きく変わるのだ。日本行きというチャンスをつかんだわけだが、

「はじめは2年くらいのつもりだったんです」

 と言う。短期の出稼ぎのはずだった。だから「アクバル」で2年間を過ごし、1985年(昭和60年)にいったん故郷のバグルンへと戻る。村の人たちはタパさんを取り囲み、日本の話を聞きたがった。どんな国か、言葉は、食べものは、仕事は……。

「そんなに働きやすいんだったら、あの人の息子も日本につれていったらどうかとか、相談させてほしいとか、そういう話もあってね」

 タパさんはバグルンに日本のことを知らしめる伝道師だったのだ。この1985年まで、バグルンから日本に働きに行く人は(おそらく)ほとんどいなかった。しかしタパさんが故郷に錦を飾ったこの年を境に、日本を目指すバグルンの人々が増えていく。自分たちもコックとして日本で働いてみよう……そんな夢を与えたのは、タパさんだったのである。

 千葉・柏にある「ラージャ」のディル・カトリさんもバグルン・ガルコットの出身だ。彼がコックとして日本に来たのは1995年のことだ。そしてタパさんと同じようにデリーで働いているときに、日本でレストランを出店しているインド人に誘われ、チャレンジしてみることにしたそうだ。この「インド経由・日本行き」が初期のコックにおいては主流だったと、新大久保のジャーナリスト、ティラク・マッラさんも言っていた。

「昔はネパールからまっすぐ日本に来るコックはいなかったんですよ。インドのレストランやホテルの厨房で働いてるときに、そこの社長に『日本に支店を出すから一緒に来ないか』って持ちかけられたって人が多かった」

 あるいはタパさんのように募集を見て応募して日本に来た人もいる。ともかく日本におけるインド料理の草創期、少ないながらもいたネパール人コックはそのかなりの部分がインドでの実務経験を買われた人たちだった。

インド人がネパール人コックを重宝した理由

 タパさんにそんな話を聞いているうちに、次なる疑問が湧いてくる。

 なぜインド人はネパール人をコックとして雇ったのだろうか。そこには両国における経済格差があり、ネパール人は安価な労働力だったろうという事情はわかる。しかしもうひとつ理由があるのだとタパさんが言う。

「たとえばインドのコックさん、自分の仕事しかやらない。カレーだったらカレーだけ。タンドールだったらタンドールだけ。洗い場だったら洗い場だけ」

 それはインドのカースト制度の意識が影響した、伝統的な分業制だ。カーストは階層でもあり、また細分化されて職業とも密接に結びついている。このカーストはこの職業、というように仕事と身分が固定化・世襲化されているのだが(それも近年の経済成長やグローバル化で変わりつつあるそうだが)、だから同じ厨房で働いていても自分の仕事しかやらない人がほとんどだ。カーストそのものというより、そこに根差した考え方からくる風習としての分業のようだが、タンドールでナンを焼くのと、カレーを煮込むのは別の仕事なのである。ましてや店の掃除や、お客の応対なんかはまったく異なる仕事と認識される。兼任するものではないのだ。

「でもネパール人は、ひとりでぜんぶやっちゃう」

 インド人と同じヒンドゥー教徒が多いネパール人だが、カーストによる職業的な縛りは比較的少ない。だから掃除から調理からレジ打ちから、ひとりでなんでもこなすのだ。経営者からすれば、その柔軟性はありがたい(しかしこれは、のちに〝ワンオペ〞で酷使されるコックの増加にもつながっていく)。

「いまもうちにはインド人のコックがいるけど、開店前に私が店を掃除してたって、あの人たち立ってるだけ。なにもしない(笑)」

 仮にも店長であり超ベテランのタパさんがせっせと掃除をしているのに、インド人コックは手伝うこともない。それが彼らの「ふつう」だからだ。

「しょうがないから息子の奥さんに来てもらって、掃除のアルバイトしてもらってる」

 加えてインド人コックは、イスラム教徒の場合がある。インドは人口14億2000万人のうち、およそ14%の2億人ほどがイスラム教徒だ。それにムグライ料理はイスラムにルーツがある。だから日本のインド料理店で働くコックの中にはイスラム教徒もたくさんいるのだが、彼らはたとえば豚肉を扱えない。豚由来のさまざまな調味料も同様だ。ほかの肉でもイスラムの戒律に則って処理されたものでないと安心できない。その点、ネパール人は食材のタブーがない。

 幅広い食材を扱えて、なんでも仕事ができるネパール人は、こうしてインド人をサポートする立場として重用されるようになっていく。そしてインドの公用語であるヒンディー語は南アジアで広く通じる。ネパール人でも理解する人は多く、言葉の壁が低い。だから日本に進出してカレー屋を開いたインド人の中には、ネパール人を信頼して一緒につれてきた人もけっこういたというわけだ。

<第4回に続く>

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