カミュの不条理文学『異邦人』ってどんな話? 異常なのは社会か、「太陽のせい」で人を銃殺した主人公か?/斉藤紳士のガチ文学レビュー⑥

文芸・カルチャー

公開日:2024/6/3

異邦人
異邦人』(カミュ:著、窪田啓作:訳/新潮社)

今回はフランスを代表する作家アルベール・カミュの代表作のひとつ『異邦人』を紹介します。
カミュの代表作である本作や『ペスト』などは、よく「不条理文学」と称されることがあります。
不条理とは、不合理であること、あるいは常識に反していることを指す言葉です。
『異邦人』のどのあたりが「常識に反しているのか」を意識して読み進めることが、本作を読み解く「鍵」になるかもしれません。

きょう、ママンが死んだ。

ママンは主人公のムルソーの住まいから離れたところにある養老院に入っていました。
ママンの死を悼む友人たちの様子をどこか冷めた目で見つめるムルソー。
出棺の際、院長に「葬儀屋が柩をしめてしまう。その前にお別れをなさいますか?」と訊ねられても冷たく「いいえ」と答える。
葬儀が行われたのはとても暑い夏の日だった。
葬儀が終わり、ムルソーが考えたことは「これで横になれる、12時間眠れる」といった自分本位なものでした。
この冒頭のママンの葬儀の場面から受けるのは、ムルソーの感情の欠落や薄情な印象です。
このあたりが「不条理文学」と称される所以なのでしょう。
では、この作品で描かれているムルソーという人間は本当に「異常で非常識」な人間なのでしょうか?
仕事を欠勤し葬儀に参列したムルソーは、自宅に帰宅後、明日から土日でさらに二日間の休暇があることに気づき、海に泳ぎに行きます。
そこで、マリイ・カルドナという元同僚の女性と偶然再会し、その後一夜を共にします。
翌日、目覚めると彼女の姿はなく、ムルソーは外を行き交う人々を窓から見下ろします。

日曜日もやれやれ終わった。ママンはもう埋められてしまった。また私は勤めにかえるだろう。結局、何も変わったことはなかったのだ、と私は考えた。

ムルソーの隣に「女を食いものにしている」と噂の男が住んでいた。彼の名はレエモン・サンテス。
レエモンはとある情婦と一緒に住んでいたのだが、諍いが起こり、彼女を家から追い出してしまう。それからというもの、レエモンはその情婦の兄を含めたアラビア人の一団に付きまとわれるようになる。
そんなある日、ムルソー、マリイ、レエモンの三人はレエモンの友人の住むヴィラに行くことに。
食事を済ませ浜に下りると、そこにはアラビア人の姿があった。ここで乱闘騒ぎになり、レエモンは怪我をしてしまう。
レエモンは治療のためにヴィラに戻り、アラビア人も逃げてしまった。しかし、なぜかムルソーは一人で再び浜に戻る。
そしてそこでアラビア人の一人と出会い、その男が匕首(あいくち)を構えた瞬間、ピストルの引き金を引いてしまう。

すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。
弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。

実はこの小説、二部構成になっていて一部はここで終了します。
二部はほぼ法廷のシーンがメインになります。
そこではムルソーの人物像、犯行当日の行動の異常性などが予審判事、弁護士、司祭などの手によって明るみに出ます。
特に短絡的で安直な犯行動機はこの作品の核ともいえる部分で、文学史上に残る名言を生み出します。

私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。弁護士は肩をすくめた。

さらにママンの葬儀での冷徹な態度、マリイに対する心無い言葉などがピックアップされ、ムルソーが非人道的で瀆神的な人間であると糾弾される。
読者はおそらく全くムルソーに感情移入できず、敵対視すらしてしまうと思います。
僕自身初めて『異邦人』を読んだときは、ムルソーの人間性に疑問を感じ、「若さゆえの倫理観の欠如や暴走」といったものが本作のテーマなのでは?とさえ思っていました。
しかし、再読すればするほど「本当にそうなのか?」というふうに考えるようになりました。
ひょっとすると、ムルソーはただただ「自分に正直」なだけなのではないだろうか。
嘘偽りを嫌い、本音で話しているだけなのではないだろうかと思うようになったのです。
もちろん、ムルソーが行った行為は到底許されるものではありませんが、彼は世間体や体裁などを気にせず思いのまま発言していたら「異常である」と認識されるようになっただけなのではないか?
「普通ではない」ムルソーの言動はまさしく彼の「普通」なのではないか。
社会とは人間が集団生活を送る中で体裁を取り繕った「建前」のもとにつくられたものだとしたら「自分に正直」なムルソーを「常識に反した」人間だと断罪してしまうのが、はたして本当の正義なのだろうか?
『異邦人』は不条理小説の金字塔ですが、不条理なのは社会なのか、ムルソーなのか、僕にはわからなくなってしまいました。
みなさんはどう思われますか? 是非一読して考えてみてください。

<第7回に続く>

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