「ライ麦畑でつかまえて」ってどんな話?「クソ」「カス」が頻出する家出少年の物語を”笑い”の観点で考察/ 斉藤紳士のガチ文学レビュー⑦
公開日:2024/6/17
普段から小説を読まない人でもこの小説のタイトルぐらいは聞いたことがあると思います。
それほど世界的に有名な小説なのですが、正直この作品がなぜそこまで支持を得ているのか解せない人もいると思います。
かく言う私もその一人でした。
とっつきにくい原因の一つはその文体にあります。
読者に直接語りかけてくるような独特な口語体のため、一瞬尻込みしてしまいます。
実際、途中で読むのを挫折した人のほとんどが主人公の「口調」もしくは「口の悪さ」に拒否反応が出てしまったのだと思います。
ですが、せっかくの名作をそんな理由で未読のままにしておくのは実にもったいない。
と言うのもこの『ライ麦畑でつかまえて』はかなり「笑える」小説でもあるからです。
ではまずこの小説の中から我々読者に話しかけてくる人物の紹介をしましょう。
主人公は16歳の(語っている本人は17歳)のホールデン・コールフィールドという少年です。
彼がかねてからの成績不振により、ペンシー・プレップスクールを放校処分になるところから物語は始まります。
そして、その後起きた数々の出来事をホールデン本人が振り返りながら語る形式で小説は進みます。
しかし、ホールデンはとにかく口が悪いんです。
頻出する言葉は「クソ」「カス」「インチキ」。
こんなワードが頻繁に飛び交う文学作品はなかなか他に無いと思います。
いわばスラングのような言葉を多用しながら大人たちの欺瞞、虚飾、虚偽、そういったものに反発していきます。
大人たちに不信感を抱く純粋な少年…と言いたいところですがやはりその口調からはその純粋さは感じ取れません。
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたとか、どんなみっともない子ども時代を送ったとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたとか、その手のディヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。
口が悪いのは仕方ないとしても「ディヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもない」の部分は絶対に不要で、単なる悪意しか感じません。
それもホールデンの悪意ではなくサリンジャーの悪意です。
といってもそれはあくまで笑いを内包した悪意。いわゆる楽屋ネタのようなメタ構造の笑いです。
この小説の中でサリンジャーはディケンズやヘミングウェイやフィッツジェラルドの名前や作品を取り上げている。あからさまに酷評したりなどはしていないが、なんだか危なっかしい感じがしてヒヤヒヤすると共にクスッと笑えてくる。
この小説の根底に流れているのはこの「悪い笑い」のような気がする。いわゆる「毒舌」という種類の笑いで、みんながうっすら勘付いているけど口にはしていないことを悪びれず指摘してしまうことで笑いを生み出す方法です。
しかしホールデンのいわば乱暴ともとれる言葉遣いによって語られる言葉は時に鋭く真実を突きます。そのあたりが若い読者の共感を得ているのだと思います。
もう一つ、笑いの手法としてあるのが「しつこさ」です。
この小説が「読みにくい」とされる一つの要因は、その冗長ともとれる文体なのですが、これも一つの諧謔性だとしたらまた違った読み方ができるかもしれません。それが「しつこさ」を楽しむ、ということ。
一つの出来事にあーでもないこーでもないと想いを巡らせ、挙句に不安定なところに着地する。
それは若者特有の精神的な揺らぎなのかもしれないが、それにしてもその「しつこさ」やどうでもいいことに対する「執着」といった形で表出される言動には滑稽なものを感じてしまいます。
ペンシー校を辞めるホールデンは寮も出ていくのだが、そこでルームメイトのストラドレイターと喧嘩になる。喧嘩の原因はストラドレイターの今度のデートの相手がジェーン・ギャラガーという女の子だったからだ。ホールデンはギャラガーのことが気になっていたのです。結局、ホールデンはストラドレイターにボコボコにされ寮を去るのだが、この寮の場面でもしつこく繰り返される行動がある。隣室のアックリーというやや変わった男が部屋にやってくるとホールデンは嫌な気持ちになり「そこに立たれると暗がりになる」と言う。
ところがアックリーが去り、ギャラガーのことで動揺して興奮するホールデンにストラドレイターはこう言う。
「ホールデン、よう、そこに立たれると暗いんだよ」
この何気ない天丼(同じボケを二度三度繰り返すこと)がさらっと出てくるあたりにサリンジャーのセンスを感じます。
ペンシー校を出たあと、ホールデンは正式な退校日の水曜日までの間、ニューヨークの街を放浪し、家には戻りません。
なぜなら両親に退校になったことを通知される水曜日まではなんとか隠し通したかったからです。
この放浪中も「アニーズ」という店に入ったりホテルに泊まったりするが、目につく人間全員に悪態をつく。
まわりはとんちき連中でいっぱいだった。嘘じゃないよ。僕のすぐ左どなりの、これもまたちっぽけなテーブルには、変ちくりんな顔をした男と変ちくりんな顔をした女が座っていた。
ホールデンはサリーという女性と出会い、二人でスケートに行くなど良い雰囲気になる。
「二人でどこか小川の流れたりしているような土地に住んで、その後結婚しよう」と言う。
ところがサリーに「できるわけないじゃない」と一蹴されると、また喧嘩になり「君みたいなスカスカ女には限りなくうんざりだよ!」と言い放ってしまう。それにしてもここにきての「スカスカ女」というワードチョイスには「悪口のレパートリーどんだけあんねん」と思わされてしまう。
そんなホールデンには溺愛する妹フィービーがいる。
このフィービーがまたホールデンの幼児性を際立たせるかのように大人びているのだが、目に映る全てのものに悪態をつくホールデンに「いったい何になりたいの?」と訊ねる。
するとホールデンはこう答える。
「だだっ広いライ麦畑みたいなところで僕はクレイジーな崖っぷちに立って、その崖から落ちそうになる子供を片っ端から捕まえる。ライ麦畑のキャッチャーになりたい」
一見すると何言ってるんだかさっぱりわからないような気もしますが、この言葉の背景にはある悲しい記憶が横たわっていました。
それはホールデンの弟アリーの死や旧友のジェイムスの自殺といった悲しい過去。
無垢な人間の理不尽な死に憤り、学歴や金や地位が大事だと強欲な生にしがみつく大人たちに抗う思い。
そういったようなものがまだ若いホールデンの小さな胸の中で綯い交ぜになってあのような乱暴な言葉たちとなって発露されているのかもしれません。
笑いと怒りや悲しみが入り混じった「幼き毒」の魅力に皆さんも触れてみてください。