辛い時に“逃げる”ではなく“隠れる”。私たちに必要なのは隠れ家(ハイダウェイ)であると教えてくれる小説
PR 公開日:2024/5/30
逃げてもいい、と人は簡単に言うけれど、そもそもどこへ逃げればいいのか。逃げた先でどうすればいいのか。古内一絵さんの小説『東京ハイダウェイ』(集英社)で、主人公の一人である圭太は、いじめられていることを家族に隠しているから、学校にも家庭にも居場所がない。そんな彼に、一人の女性が言う。〈“逃げていい”っていう口当たりのいい常套句は、最近、政治家たちがなにかとちらつかせてくる、自助だとか、自己責任だとかと同じことなんじゃないのかな〉。
その言葉が何かを解決してくれたわけではない。けれど初めて自分の言葉を受け止めてくれる人に出会って、圭太は変わる。自分を、現状を、変えたいと思えるようになる。学校や家庭からの逃げ道として、トレーナーである彼女にボクシングを習うことを選ぶのだ。逃げてもいい、というのは本来そういうことだ。真正面からぶつかっても傷つくだけの相手をいったん回避して、越えていくための技や力を蓄えるための時間をつくる。この世でいちばん残酷な真実は、どんなに理不尽な苦しみに満ちていたとしても、自分の人生は自分でどうにかするしかないということだから、私たちにはハイダウェイ――束の間の英気をやしなうための“隠れ家”が必要なのだと、この小説は教えてくれる。
高校生の圭太はちょっと例外的で、本作の主人公はほとんどが働く大人たちである。20代の桐人は、誠実だけど不器用で、成果を出すにも時間がかかり、同期に馬鹿にされている。だが同僚の璃子にいざなわれ、オフィス街のどまんなかにあるプラネタリウムで昼休みを過ごすことで、はりつめた力を抜くことを覚えていく。母親として、妻として、中間管理職として、常に周囲に気を配ってバランスをとりながら役目を果たしているはずなのに、みんなから文句を言われてしまう桐人の上司・恵理子は、通勤電車の終着点に自然あふれる公園を見つけて、自分の果たすべき役割を見つめ直す。恵理子の同級生で、色恋沙汰には縁のないカフェの店長・久乃は東京国立近代美術館の一角にひとりきりの安らぎを求め、久乃の店の常連で恵理子の同僚である光彦は水族館でクラゲの姿に自分を重ね……。
みな、自分だけの隠れ家を見つけ、その場所でしか得られない癒しを得る。だが、誰にも干渉されない場所で、人は自分自身と対話を重ねるしかなくなり、否応なしに傷やコンプレックスに向き合わざるを得ないということだ。何も見ないふりをして、理不尽に文句を言いながら、現状を変えずにいることのほうが、もしかしたらラクかもしれない。それでも、自分自身との対峙を乗り越えるからこそ、人は未来を生きる力を蓄えることができる。〈自分が逃げる道を見つけるために、他の誰かを犠牲にしてたんじゃ、本当はどこにもいけやしない。そんなのは、ただのまやかしなんだよ〉と圭太のトレーナーが言うように、まやかしではない本当の自分の生を歩むために必要な勇気を、この小説は分け与えてくれるのだ。
文=立花もも