浅田次郎×市毛良枝 『完本 神坐す山の物語』出版記念対談! 山を熟知するふたりが語る山の魅力、そして自然と人間の関わり方

文芸・カルチャー

公開日:2024/7/7

市毛良枝さん、浅田次郎さん

 登山が大好きで日本のみならず外国の峻峰にも挑戦してきた俳優の市毛良枝さんと、山の神官の末裔という自身のルーツに由来する物語を描いてきた浅田次郎さん。山の自然、そして神秘を熟知するお二人が語る「神坐す」山の魅力とは。

(取材・文=門賀美央子 撮影=山口宏之)

浅田:市毛さんは僕の兄と昔からのお知り合いで、登山に関する本も出されているので、今回『神坐す山の物語』の完本版を出すにあたってはぜひお話をさせてもらいなさいと兄から言われ、本日こうしてお時間をいただきました。ありがとうございます。

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市毛:とんでもない。『神坐す山の物語』は文庫版ですでに読んでおりましたが、今回の完本版を拝読して、改めて山というものをこんなに美しく書いてくださったことをありがたく思いました。物語は神秘的で、ドキドキしましたし。

浅田:ありがとうございます。

市毛:以前、「自分たち人間は山の中では住まわせてもらっているだけ、遊ばせてもらっているだけ」というようなことをお書きになっていらっしゃったかと思うのですが、それはもう私が自著で言いたかったことの全てなんです。山に限らず、都会であれなんであれ、人間は大自然の中でごく短い間だけ遊ばせてもらっているような存在です。それを勘違いして、自然を支配した気になっては駄目だと常々考えていたのを、とてもきれいに書いてくださっていると思いました。

浅田:『神坐す山の物語』に書いた通り、僕の母方の里は奥多摩の御嶽山に代々住んできた神官の家柄です。まさに山の神々とともに在り続けた一族ですね。今も山上には神気が溢れていて、いわばパワースポットでしょうか。

市毛:ご本を読むとそれがよくわかります。まさに霊山だったのですね。

霊妙なる山に馴染んで、感性が研ぎ澄まされると

浅田:日本において、山は昔から神域です。市毛さんは登山をしていて、そういう雰囲気を感じたことはありませんか?

市毛:初めて山に登った時に、たまたまブロッケン現象を見ることができたんです。もちろんあれは自然現象ですが、それでもやはり神秘的でした。ああいうものを目の当たりにすると、人間ではない何かを敬うというか、額ずく気持ちになるものですね。山岳宗教が生まれたのも当然なのだと、ストンと納得しました。山に入ると、人間はとても小さくて、決して絶対的な存在ではないことが痛いほどわかります。一つ間違えれば簡単に死んでしまいますから。

浅田:まったくおっしゃる通りだと思います。

市毛:山にいると、『神坐す山の物語』に出てくるほどの不思議ではないけれども、それらしいことが起こる時があります。たぶん、自分の恐怖心が錯覚させるのだと思うのですが、夜中、テントに一人でいると、外には誰もいないはずなのに、歩いているような気配がしたりするんです。

浅田:それは怖そうだ。

市毛:そういえば、今回書き下ろされた「長いあとがき あるいは神上りましし諸人の話」の章で、お母様がお亡くなりになったその瞬間、死を感じたとお書きになっていましたよね。

浅田:ええ。まあ小説なので少し話は盛っていますが(笑)。

市毛:そうなんですか?(笑)。 でも、私も父が死んだその時間に、頭の中にぱあっと父の顔が流れてきた、という体験をしたことがあるんです。危篤だから帰ってこいとの連絡があって、仕事先から向かっている途中でした。間に合うと信じて向かい、死亡時刻など知るはずもないのに、病院でお医者さんから「何時何分にご臨終でした」と言われたのがまさにその時間で。やはりあれは虫の知らせだったのかな、と思っています。ただの思い込みかもしれませんけど。

浅田:肉親って、そういうことがあります。

市毛:浅田さんはよく不思議な経験をされるのですか?

浅田:ちょっとそれに近いことがあるぐらいです。普段は意識しないようにしているし、あっても偶然で片付けています。やっぱり怖いですからね。

市毛:そうですね。気のせいと思っても怖いものは怖い(笑)。

歳を重ねるほど景色は美しくなる

浅田:僕が市毛さんの『73歳、ひとり楽しむ山歩き』を読んでしみじみ思ったのは、歳を取るのもいいものだな、ということでした。帯に「歳を重ねるほど、景色は美しくなる」と書いてありますが、これは本当にそうだと思います。確かに歳を取ってからのほうがきれいなものがきれいに見えるようになりました。若い時分は自然を顧みる暇がないし、自然に関する知識もないから、真の美しさがわからない。ところが、歳を重ねるにつれていろんなもの──それこそ汚いものから美しいものまでをあれこれ見てくると、四季の素晴らしさなどをしみじみと感じるようになります。

市毛:おっしゃる通りです。私が40歳で登山を始めてよかったと思ったのは、まさにそこです。19歳や20歳だったら、とにかく元気ですからさっさと登って、山道の小さな草花や空気のわずかな変化などに気づかず、「登るのなんて簡単だったわ」とか、逆に「つらいだけでつまらなかった」とかいうだけで終わっていた気がするんです。けれど、40歳の体力に合わせた自分のペースで登ると小さなお花なども目に入りますし、人生のつらさもそこそこ経験しているせいか、素直に「お花だってこんなに頑張っているんだ。だから私も頑張ろう」なんて思えるんですよね。

浅田:そうですね。花を愛でる自分を発見したりすると、自分でも「何をやってんだ」と思うわけだが、でも、それがいい。

市毛:もしかして、浅田さんにとってそれは堕落なんですか?

浅田:いえ、そういうわけではありません。花は昔から好きですよ。若い時に、信条として、金を使う順序を「一に花、二に本、三に飯」と決めたので。

市毛:まあ、とても素敵。

浅田:いやいや。小説家である以上、いかに貧乏をしても花を忘れたらおしまいです。

市毛:確かにそうかもしれません。

浅田:しかし、最近の小説は花の咲かない本ばっかりなんですよ。描写に四季の移ろいがない。若い書き手が季節に馴染んでいないのかもしれないが、日本の小説ならば季語がなかったらもうアウトです。近頃は四季に関係ない生活を送っているからだと言われればそれまでですけどね。

市毛:関係なくはないですよ。東京にいたって、四季の移り変わりに合わせて匂いも色も変わりますから。

日本の豊かな自然を守り自然とともに生きるべき

浅田:今は、インバウンドで日本の桜を見にくる外国人も多いですが、日本人も一度ちゃんと考えたほうがいい。せっかくずっと日本にいるんだから、四季折々の美しさに気づかなければいけないと思います。とはいえ、桜がもてはやされるからといって、どこにでもソメイヨシノを植えるのは嫌なんですけど。

市毛:あれは違いますよね。

浅田:違います。花は自然の中にあるのが一番美しい。

市毛:まさにそうなんです。元々自生していない山や野原にわざわざソメイヨシノを植えるということ自体、自然を汚すことになるという自覚を持たないと駄目です。

浅田:実はそれ、言葉も同じです。言葉って本当に素晴らしいもので、言葉があったからこそ人間は猿から人になれたんだと思いますが、言葉を使うようになったせいで人と自然、人と人が心で通じ合う力が損なわれたのだと思います。つまり、言葉は、機能的にいえば最初から穢れているともいえるんですよ。僕は、これを自然から教わりました。自然は、手を加えてない状態が一番美しい。心も言葉なしで通い合うのが一番きれいな状態であって、人工的な媒体である言葉を使った時点で穢れを含むことになってしまう。その覚悟を持っていなければ小説は書いちゃいけないと思っています。

市毛:そういう感覚は、やはり子どもの頃から神に近い場所に馴染んでおられたから生まれたものなのでしょうか。

浅田:そうかもしれません。神様に捧げる祝詞を子どもの時分からずっと聞かされてきたわけですが、あれは押し付けがましくないし、言葉の中でも自然に近いものである気がします。

市毛:私には浅田さんが書かれる言葉もとても美しく、清々しく感じられます。今はあまり聞けなくなった古風な言い回しも心地いいですし。これから読む方にはぜひそうしたところも感じ取ってもらえたらいいですね。

浅田:ありがとうございます。僕も市毛さんのご本を読んで心から山に登りたくなりました。人間はやはり自然とともにあるべきです。

ヘアメイク:吉村英里 スタイリング:金野春奈(市毛さん)
衣装協力(市毛さん):トップス3万5200円、スカート4万4000円(共にアデリー/オフィス サプライズTEL03-6228-6477)、その他スタイリスト私物 *すべて税込

あさだ・じろう●1951年、東京都生まれ。95年『地下鉄に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。97年『鉄道員』で第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、08年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、16年『帰郷』で第43回大佛次郎賞など、数々の文学賞を受賞。その他、15年に紫綬褒章を受章、19年に第67回菊池寛賞を受賞。

いちげ・よしえ●1950年、静岡県生まれ。俳優、登山愛好家、NPO法人日本トレッキング協会理事。文学座付属演劇研究所、俳優小劇場養成所を経て、71年にドラマ『冬の華』でデビュー。映画、舞台、テレビと幅広く出演するほか、環境カウンセラーとして講演活動なども行う。著書に『山なんて嫌いだった』。

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