角田光代の最新短編集。42の部屋で様々な人間が織りなす人間模様

文芸・カルチャー

PR 公開日:2024/7/23

あなたを待ついくつもの部屋"
あなたを待ついくつもの部屋』(文藝春秋)

 心が休まる場所を求めて旅をする人は存外多い。宿、レストラン、旅先の景色。自宅とは違う空気を吸い、美しい自然を楽しむ。もしくは、宿の中に思う存分引きこもるのもいい。世界にはいくつもの部屋があり、望む人たちに扉を開けて待っていてくれる。角田光代氏による短編小説集『あなたを待ついくつもの部屋』(文藝春秋)では、国内3つの帝国ホテルを舞台にしたショートショートが42編綴られている。

 気の向くままに開けた扉の先には、各々違う景色を持つ「部屋」が現れる。1編の物語が短く、それぞれ完結しているため、どの扉から開けてもいい。本書では、穏やかな旅先の風景のほか、家族の葛藤やしがらみも軽やかに描かれている。ここでは、私が特に“とどまりたい”と感じた部屋「変わって変わらず」について紹介したい。

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 長らく単身赴任していた夫との離婚が決まった希美子は、自分でも驚くほどの脱力感に襲われていた。年に数回帰ってくるだけの存在だった夫でも、娘の父親ということもあり、簡単に気持ちを割り切れるものではなかったのだろう。母の戸惑いを気遣った娘に勧められ、希美子は同窓会に参加することとなる。「豪勢に」と娘に提案されるまま東京のホテルを1泊予約した希美子は、当日レストランで食事をするもワイングラスを倒して意気消沈してしまう。また、久方ぶりに会う同級生に報告できる話が「離婚」しかないことにも気落ちしていた。だが、そんな希美子に対し、同級生たちはかつての呼び名で笑いかけ、離婚についてこのように言い切る。

“よく決断した!人生の新たな幕開けじゃないの!”

「離婚」に対してネガティブな印象を持つ人は多い。しかし、離婚は大きな決断であり、そこからはじまる人生がより良いものになるケースは多分にある。私自身、数年前に離婚を経験している。散々迷い、悩んだ上での決断であった。後悔はしていない。あの日、離婚届を出した私は、不要な皮を脱ぎ捨てたような心地がした。だが、希美子の同級生のように朗らかに受けとめてくれる人は少なく、否定的な意見も多かった。だから余計に、この一言に救われる思いだった。

 同級生たちと顔を見合わせ、「変わらないね」と言い合う希美子。その心情を描いた言葉に、強く惹きつけられた。

“変わってしまったいろいろのものごとの奥から、変わらないきれいなものがあらわれてくることに驚いて、幾度でも幾度でも言い合う。”

 長く生きれば生きるほど、多くの物事が変わっていく。環境、人間関係、自分自身の生きかた。変わらない人はおらず、流動的に変化する関係は、時に神様の前で誓い合った愛さえも萎ませる。だが、「変わらないきれいなもの」もたしかに存在していて、そのおかげで私たちは長い年月を生き抜くことができるのではないだろうか。娘に勧められホテルを予約したのを皮切りに、かつて長い時間を過ごした教室の空気感が、希美子の心を持ち上げた。その光景を思い浮かべる私の口角も、知らぬうちに上がっていた。

 表題作にある一節が、本書の魅力を如実に物語っている。

“ひとつの宿は、食事とは違って、体のなかに取り入れることはできないし栄養になるわけでもないが、けれど自分は、今まで泊まったどんな宿からも、なにがしかのエネルギーをもらって、そこを出て歩き出し、それをくりかえして今ここにいる。”

「食べること」以外の方法で摂取する栄養は、人の心を健やかにしてくれる。いざという時に駆け込める部屋があれば、それだけで心はわずかに楽になる。本書で描かれるさまざまな部屋の扉を開け、人同士の交流に思いを馳せる。そんな時間は、多忙な毎日に追われる現代人にとって、ホッと息をつける癒しのひと時となるだろう。

文=碧月はる

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