料理配達員がオーナーシェフに報告した事件。“不自然な焼死体が出たアパート火災”の概要は?/難問の多い料理店①
公開日:2024/8/18
『難問の多い料理店』(結城真一郎/集英社)第1回【全6回】
ビーバーイーツ配達員として日銭を稼ぐ大学生の主人公は、注文を受けて向かった怪しげなレストランでオーナーシェフと出会う。彼は虚空のような暗い瞳で「お願いがあるんだけど。報酬は1万円」と噓みたいな儲け話を提案し、あろうことかそれに乗ってしまった。そうして多額の報酬を貰ううちに、どうやらこの店は「ある手法」で探偵業も担っているらしいと気づく。「もし口外したら、命はない」と言うオーナーは、配達員に情報を運ばせることでどんな難問も華麗に解いてしまい――。笑いあり・驚きあり・そして怖さあり…な、新時代ミステリ小説『難問の多い料理店』をお楽しみください!
転んでもただでは起きない
ふわ玉豆苗スープ事件
目深に被っていたキャップのつばを少し上げると、眼前のアパートを振り仰ぐ。
十二月某日、時刻は深夜零時すぎ。
二階の角部屋――二〇四号室から上がった火の手は、刻一刻と建物全体に広がろうとしていた。轟々と唸る火柱、夜空めがけて立ち昇る黒煙。時折バチバチ、ガラガラという崩落音が響き、少し離れたこの場所まで熱気が押し寄せてくる。
「ざまあみろ」
聞こえよがしに呟くと、すぐ近くで息を吞む気配がした。見ると、野次馬の一人がこちらを凝視している。寝間着にダウンジャケット、頭にはヘアカーラーをつけたまま。近所の主婦だろう。火の手に気付き、慌てて玄関から飛び出してきたのだ。
「ざまあみろ」
もう一度言い、女の視線を振り払うように歩みを進める。といっても、この場を立ち去るわけではない。燃え上がるアパートに向かって、だ。
「ちょっと、なにするつもり!?」
女の金切り声と、それをきっかけに巻き起こったどよめきを背中に聞きながら、外階段を昇っていく。踏み外さぬよう慎重に。されど見せつけるべく堂々と。カン、カン、カン、という乾いた音が小気味よい。
「危ないわよ! 戻ってらっしゃい!」
二階まで到着すると、そのまま右手に曲がり外廊下へ。これでもう観衆からは見えやしない。自分の姿も、これからすることも、何もかも。
目指すべき二〇四号室は目と鼻の先だ。
再びバチバチ、ガラガラという崩落音。
熱い、目が痛い、喉が痛い、息が苦しい。
でも。
大量の煙を吸い込んだ胸は、それを遥かに上回る充足感でいっぱいだった。
1
「焼死体です」
僕がそう口にした瞬間、男の背中がピクリと反応を示した。ここまでは本当に聞いているのだろうかと不安になるほど微動だにしなかったのだが、ようやく興味のアンテナに引っ掛かってくれたようだ。
「焼け跡から、焼死体が出てきたんです」
ダメ押しのようにもう一度言いながら、そこはかとない可笑しさが込み上げてくる。まったく、なにやってんだか。もし仮に僕が探偵事務所の助手で、目の前の男がその事務所の主だとすれば、特に違和感もないのだけれど。
苦笑を嚙み殺しつつ、辺りを見回す。
向かって右手に男の後ろ姿、左手奥の壁際には縦型の巨大な業務用冷凍・冷蔵庫、正面には四口コンロ・巨大な鉄板・二槽シンク・コールドテーブルなどが並ぶ広大な調理スペース、天井には飲食店の厨房などによくあるご立派な排煙・排気ダクト。
そう、ここはレストランなのだ。それも、ちょっとばかし……いや、そうとう変わり種で、もしかするとかなりグレーな商法の。
そして僕はというと、ビーバーイーツの配達員としてこの〝店〟に頻繁に出入りする、ただのしがない大学生だ。
棚の上の金魚鉢を眺めるべく丸めていた背中を起こしながら、男は――白いコック帽に白いコック服、紺のチノパンという出で立ちのこの〝店〟のオーナーは、ゆっくりとこちらを振り返った。
「それはいささか妙だね」耳に心地よい澄み切った声で言い、そのまま歩み寄ってくると、僕の対面に腰を下ろす。
「話を続けて」
「はい」頷きつつ、視線は目の前の男に釘付けになる。
ダークブラウンの流麗なミディアムヘアーにきりっと聡明そうな眉、アンニュイな雰囲気を漂わせる切れ長の目。まっすぐ通った鼻筋しかり、シャープな顎のラインしかり、不自然なまでに完璧すぎるその造形からは、どこか人工的な匂いがしてくるほど。実はここだけの話、彼はよくできた蠟人形でして……と説明されたら「やはりか」と納得してしまうだろう。中でも異彩を放っているのはその瞳だった。無機質で無感情。すべてを見透かすようでありながら、こちらからは何の感情も窺い知ることができない。言うなれば、天然のマジックミラーだ。
そのマジックミラーが僕を見据えている。
話の続きを、と静かに促してくる。
「実は、その焼死体の身元が大問題なんです」
事の概要はこうだ。
いまから五日前、時刻は深夜零時すぎ。京王井の頭線・東松原駅から徒歩十分のところにある木造アパート『メゾン・ド・カーム』の二階の一室から火の手が上がった。
失火の原因はその部屋に住む大学生・梶原涼馬の煙草の不始末で、その日の晩、一人で晩酌を終えた彼はいつも通り寝支度を整え、床に就いたとのこと。しかし、その際ゴミ箱に放り込んだ最後の一服が完全に消えておらず、そこから炎上。ふと目を覚ましたときには、既に部屋中火の海だったという。
しばし奮闘してみたものの、自力での消火は不可能だと悟った彼はそのまま部屋を飛び出し、アパートの住民を起こして回ることにした。まずは自分と同じ二階、次いで一階と順番に。鍵のかかっていない部屋には問答無用で押し入り、締まっている部屋は住民が気付くまで外からドアを叩き続けた。その迅速な対応もあってか、幸いにもアパートの住民は全員が無事だったが、なんと焼け跡から――それも梶原涼馬の部屋から、焼死体が見つかったというのだ。
「諸見里優月という女子大生で、梶原涼馬の元交際相手とのことです」
そう告げると、予想通り、オーナーは「ふん」と鼻を鳴らした。
「確認。その日の晩、梶原涼馬は『一人で晩酌していた』と証言しているんだよね?」
「はい」
「だとしたら、その証言が虚偽――実際はその日、彼は元交際相手である諸見里優月と部屋にいた。以上では?」
たしかに、これを聞かされたときは僕もそう思った。なぁんだ、それだけの話か、といささか拍子抜けもしたくらいだ。なぜ彼女が焼死体となったのか――ただ単に逃げそびれたのか、それとも逃げられないような状況だったのか、その辺りの事情はよくわからないけれど、彼女が梶原涼馬の元交際相手だったのだとすれば、その場に居合わせたこと自体は不自然でもなんでもない。
「ところが、話はこれで終わらないんです」
「ほう」とオーナーの片眉が上がる。
「依頼人曰く、近隣住民の大勢が『アパートに入っていく女を見た』と証言しているそうで」
中でも特筆に値するのは、アパートの向かいに住む主婦の証言だろう。
その日の晩、火の手に気付いた彼女は寝間着のままダウンを着て玄関を飛び出し、家の前の道から様子を窺っていたという。住民は無事かしらという心からの気遣い半分、マイホームに飛び火したらどうしようというやや自分本位な懸念半分で。
「すると、どこからともなく女が現れ、アパートの敷地に入っていったんだとか」
危ないわよ! 戻ってらっしゃい! そう声をかけたが女は聞く耳を持たず、そのまま外階段を昇っていき、外廊下へ姿を消した。
「しかも、敷地に入っていく直前、その女はこう呟いたそうです」
ざまあみろ、と。
「なるほど」そのまま天井を仰ぎ、オーナーは瞼を閉じる。
十秒、二十秒と時が過ぎ、やがて彼は「ちなみに」と口を開いた。
「それは、いつのこと?」
「はい?」意味がわからず首を傾げる。
「時系列。女がアパートに入っていったのは、梶原涼馬が住民を救出する前なのか、それとも後なのか」
「えーっと」記憶を辿る。「前ですね」
その主婦の証言には続きがあった。
女がアパートに入ってから間もなく、二階の住民と思しき面々が順番に外階段を駆け下りてきた。そして、最後に現れたのがパンツ一丁の梶原涼馬だった、と。
そう補足すると、彼はもう一度「なるほど」と言い、やおら席を立った。
「え、もうわかったんですか?」
「あくまで推測だけど。問題は――」
それを如何に証明できるかだけ。
瞬間、ぴろりん、と調理スペースに置かれたタブレット端末が鳴る。
「あっ」と僕が目を向けたときには既に、彼は端末のほうへと向かっていた。
「注文ですか?」
「そのようだね」
「メニューは?」
「例のアレだよ」
〝例のアレ〟――すなわち、ナッツ盛り合わせ、雑煮、トムヤムクン、きな粉餅。通常では考えられない、地獄のような食べ合わせとしか言いようがないものの、だからこそ、これらのメニューをあえて注文する客には一つの共通点がある。
調理スペースに立つと、オーナーは淡々とコック帽を被り直した。
「さて、またどこかの誰かさんがお困りのようだ」
<第2回に続く>