SUPER BEAVER渋谷龍太のエッセイ連載「吹けば飛ぶよな男だが」/第37回「賛成票多数」
更新日:2024/8/12
音楽活動を始めて早十九年経つ。すなわち今は二十年目の新人である。
これまでの活動を振り返ると決して順風満帆とは言い難いが、今のこの状況、そして環境を考えると、これまでの紆余曲折も一部を除いてあって然るべきだったのかなアなんて思っている。音楽をやる意義みたいなものを見つけられたのは、この文章を読んでくれているあなたに出会えたからに他ならない。
そして私はバンドマンであると同時に現代を生きる一人間として、SNSなんかもやっている。得意か得意でないかといえばお世辞にも得意だとは言えないが、かりそめであったとしても、コミュニケーションのツールとして利用させて頂いている。
何かを投稿する。主にライブの写真を、音楽のことを、自分の考えを。そうすると私をフォローしてくれている人から反応がくる。ボタンひとつで「いいね」と感情を表してくれたり、コメントをしたためてくれたり。
正直に言って良いだろうか。
滅茶苦茶に嬉しいです。
反応の一つ、コメントの一つがすごく嬉しいし、とても励みになる。改めていつもありがとう。
で。
そういったパワーがあるからこそ、SNSには気が付きにくい恐ろしさもある。これから書くのはアンチや口撃による表面化された恐ろしさではなく、肯定に潜む恐ろしさだ。
正しいと思った意見や、素敵に撮ってもらえた写真などを投稿する。するとそれに対して多くの「肯定」が、いいねやコメントという形で画面に表示される。それを見て私は「ありがたいなア」と、目を垂れ目にしたりする。数が多ければ多いほど目尻は下り、然も受け入れてもらったような感覚になるのだ。
ただ、それって本当だろうか。
本当であることは間違いないが、全ての側面においての本当と言えるのだろうか。
活動をする、存在を知ってもらう、好きになって頂く(この繰り返し)により、自分を支持してくれる人は増える。こんな風に書くと実に単純だが、その実はまじで単純ではないと知っているからこそ、支持して頂けることは尊く、本当に有難いことだと思う。なので、支持されているということが活動においてわかりやすく表面化し、そして私生活にも反映されたりすることに、具体的には「イエス」を言ってくれる人が増えていく状況にこそ、真っ当な危機感を覚えなければならないと感じている。
間違ったものに対しては「間違っている」と言われ、格好が悪いものには「格好が悪い」と言われる。すなわち「ノー」の意見。これは生きていれば避けて通ることは難しいが、喜ばしい感覚ではないからこそ、自らの人生に活かすことができる。ただ、悔いるか、恥じるか、自分のためか他人のためかはどうあれ、「ノー」を言われぬよう精進していたマインドは、「イエス」の母数が増加することにより若干バグる。あたかも自分が正しく素敵な人間であるかのように錯覚してしまう瞬間があるのだ。
さらに厄介なことに、「ノー」の意見を排除できる環境を、だんだん自分で作れるようになる。