SUPER BEAVER渋谷龍太のエッセイ連載「吹けば飛ぶよな男だが」/第37回「賛成票多数」
更新日:2024/8/12
SNSでのみならば、まだ可愛げはある。しかし現実との分別がつかなくなると手に負えない。自分を肯定してくれる人だけを周りに置いて、気持ちがよくなれる言葉だけを取り入れ、そうでないものは排除する。「ノー」をぶつけて来そうな人との時間を無くして、「イエス」を差し出してくれる人との時間ばかりを選ぶ。当たり前だが、それは絶対に心地が良い。天国だ。結果的に実はそれは張りぼてで、まやかしの極楽であるということに人は気が付けなくなっていく。
意見をくれる人、叱ってくれる人、怒ってくれる人、「違う」と言葉にしてくれる人。これらは本当に貴重だ。無闇矢鱈はまじ迷惑だが、芯を食ってズバンと心を届けてくれる尊い人は実はあまり多くない。何歳になっても人が伸びる上で欠かせない存在だ。それなのに、気分が気持ち良くなれないからという理由で、極楽の住人は「ノー」を遠ざける。そして「ノー」を口にするな、という雰囲気まで漂わせ始める。
芸事を司る業界にいるとそういう人を目にする機会は多い。ん、この仕事に限らずか、いわゆる勘違いちゃんも含めた「エライ人」だね。お手製の天国に肩までどっぷり浸かり、イエスマンだけをそばに置く。そして天国の主として、「違う」と指摘されない環境配備に全力になる。そして彼ら彼女らは押し並べて「好きな人とだけいればいい」と口にする。いやこれは、間違ってない、全然間違ってない。俺も「好きな人と一緒にいる」を選んでいる。でも「好きな人」と「都合のいい人」は圧倒的に違う、と自分で感じ取れないといけないと私は思うのだ。
支持されていることが「正しい」ことではない、だから弁える姿勢は常に崩してはいけないと強く思う。
ありがたいことだ。まだまだ至らぬことだらけのこんな分際でも気を遣ってくれる人が増えてきた。SNSの反応だってすごく嬉しい、コメントなんて全部見ちゃう。だからこそ変化に対して、やりすぎだろってくらい敏感にならなければいけないと私は感じている。卑下や謙遜の先を見ないといけない今だからこそ、兜の緒をギュンギュンに締めなければならない。なんてことを思っております。はい。
あ、勘違いしてほしくないのだが否定を求めているわけではない。正直なところ自分は肯定だけされていたいと願う人間だ。もう歯が浮くほどずっと褒めてほしい、おはようからおやすみまですごいねエすごいねエって言われながら頭を撫でられて過ごしたい。だから「イエス」を多く頂けるようになった今、その「イエス」に自分自身で裏付けを持たせられる人間でありたいと思う。そもそも「ノー」が生じないように、どんな時でも己の行動を冷静に見つめられる人間であり続けたいです。
うす。