直木賞作家・垣根涼介インタビュー “戦は銭のある者が勝つ”という身も蓋もない真理を書いた『武田の金、毛利の銀』

文芸・カルチャー

公開日:2024/8/8

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2024年9月号からの転載です。

垣根涼介さん

 直木賞受賞作『極楽征夷大将軍』では、室町幕府の初代将軍・足利尊氏はなぜ天下を取れたのか……という日本史上に残る大きな謎にフォーカスし、読者にかつてない納得感を与えた、垣根涼介。独自の尊氏像を構築するうえで作家が援用していたのは、「群衆の英知」とも呼ばれる人間社会にまつわる定理だった。要は、「『みんなの意見』は案外正しい」(ジェームズ・スロウィッキー)のだ。

取材・文=吉田大助 写真=内海裕之

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「僕は50歳を過ぎてから株とか債券に手を出すようになったんですが、結局はSP500や東証株価指数といったインデックス(市場の値動きを示す指数)と連動する、インデックスファンドを選択するのが一番いいんです。その時価総額加重型の理論がノーベル経済学賞を取ってますしね。何も考えずに市場の動き、世間の波に乗っていけば最終的に必ず勝つ、それが自然とできたのが尊氏だったんじゃないか。後醍醐天皇や新田義貞、楠木正成は、個人の知力や経験を頼りにするような個性的な投資家だった。だから尊氏に負けたんですよ」

 そうしたビジネス的な観点から歴史を見つめるアプローチが、直木賞受賞後第1作となる『武田の金、毛利の銀』において全面展開されている。明智光秀の無名時代から始まる『光秀の定理』(2013)、裏切られる側の信長視点で「本能寺の変」を描いた『信長の原理』(18)と世界観を共有する歴史時代小説だ。

「『光秀の定理』ではベイズの定理(モンティ・ホール問題)、『信長の原理』ではパレートの法則(働き蟻の法則)を使って日本史上の出来事を読み解く、ということをやっていました。今回はそういった定理やら原理を明確に取り入れたわけではないんですが、もしかするとこれまでで一番、身も蓋もない真理を軸にした話になっているかもしれません。その真理とは、”戦は銭のある者が勝つ”ということです」

安定した3人の関係性に超俗物な人間を放り込む

 物語の幕開けは、『光秀の定理』でメインに据えた「長光寺城の戦い」から1年後の、永禄12年(1569)。ついに上洛(京都入り)した織田信長は、天下統一への道筋を思案していた。甲斐の武田信玄と西国の毛利元就、どちらを先に潰すべきか? その判断を下すためには、どんな情報を重視するべきか。〈兵力差も重要だが、その総兵力を長期にわたって動かし続ける財力が武門にあるかどうか。軍事費──銭の力だ。永遠に戦い続けられる者だけが生き残る〉。冒頭に登場する信長のモノローグの中に、本作の根幹をなす思想が凝縮されている。

「例えば、ナポレオン。それまでヨーロッパでぶいぶい言わせていたナポレオンが没落した理由は、トラファルガー沖の海戦に敗れた報復として、イギリスからものを買うなという大陸封鎖令をヨーロッパ中に出したことなんですね。それをやったことでかえってヨーロッパ諸国の経済が壊滅的な状況になってしまった。その封鎖令を破ったロシアをやっつけるぞと戦争を仕掛けたら、兵站が続かず敗走せざるを得なくなり、皇帝の地位を返上することになったんです。第二次大戦における日本なんかもそうですよね。歴史上のどんな戦争を見てもたいてい、勝負は経済力の多寡で決まるんです」

 信長は、部下の中でも理財感覚がわかる人物として明智光秀に目をつけた。武田の領土には金山(湯之奥金山など)があり、毛利の領土には銀山(石見銀山)がある。銭を生み出すそれらの産出量や取引量がわかれば、両軍の地力がわかる。「3人」で潜入捜査を行い、帳簿を調べてこい──そう言い渡された光秀の隣には兵法者の新九郎と、悟っているのか世俗に塗れているのかわからない破戒僧の愚息がいた。『光秀の定理』の主人公トリオだ。

「何かと悩みがちな明智光秀と、新九郎と愚息が出てくる話でした。この3人の関係性は自分でも好きで、この3人であれば大概のシチュエーションをぶつけても面白く昇華してくれる、いくらでもシリーズ化できるなと当時から思っていたんです」

 かくしてトリオは再結成され、まずは武田の領土である甲斐(現在の山梨県)へと向かう。その道中で偶然出会ったのが、土屋十兵衛長安と名乗る人物だった。出会い方が強烈だ。宿の隣の部屋で激しい夜伽を続ける男にクレームを入れにいったところ、丁寧に謝られ、挙げ句の果てに仲良くなってしまったのだ。やがて因果が転がり、光秀トリオは十兵衛と一緒に旅をすることとなる。

「隣の部屋から聞こえてきた音で悶々としている、光秀の姿を書くのは楽しかったです(笑)。光秀たち3人だけだと、関係性が安定しすぎてしまって話がうまく転がらない危険性があったんです。そこに十兵衛という超俗物を放り込むことで、いい化学反応が起こるんじゃないかなと思いました」

 新たな街に辿り着くたびに娼館へと繰り出す(!)十兵衛に翻弄されつつ、武田の土地から、毛利の土地へ。でこぼこ4人組のドタバタ道中を追いかけるのが、楽しくってたまらない。彼らの五感を通してこの時代を旅する、ロードノベルとしてもクオリティが高い。

「取材で武田の湯之奥金山と毛利の石見銀山に行ってきましたし、”4人がこんなことをやっている場面が書きたい”というイメージもたくさんありました。ただ、頭の中にある映像を、文字にそのまま起こすことは絶対にしないです。それをやると、文字は映像という表現手法に負けてしまうんですよね。文字だからできる強みは、心理描写自体が人物たちの推進力を生み、その結果としての心象風景の連なりが物語を構築するということ。この場面を誰の視点で、誰の心象を通して書いた方が物語として一番面白くなるのかは、場面ごとに考え尽くして書いていったつもりなんです」

心底好きなことをして生きてこられたか?

 本作は戦国が舞台ではあるが、合戦描写はひとつもない。にもかかわらず、4人が石見銀山に潜入して以降の展開は特に、サスペンスフルだ。そこに至る展開で読者の側も理解度を深め、光秀たちの密命の重要度を認識できているからだ。

「戦の勝敗は、始まる前の下準備の段階でほぼほぼ決まっているものなんです。事前の作戦や計画などももちろんですが、どれぐらい相手の実力を正確に調べ上げることができているかが大事なんですよね。さらに言うと、合戦って、文字よりも映像の優位性の方が高いんですよ。映像に優位性があるところを、文字で勝負するのは難しい。合戦よりも合戦に至るまでの心理描写を濃密にやることで、映像では表現できない小説になると思っているんです」

 武田の金と毛利の銀はどちらが上か。光秀らの報告を聞いて、信長はどう判断を下すのか。そして……十兵衛の正体にまつわるサプライズは鳥肌ものだ。実は、本作には「戦は銭のある者が勝つ」の他にもう一つ、真理が宿されていると言う。

「この辺りの時代から人々の生活も豊かになってきて、人生を自由に謳歌しようという気運が出てくるんです。その象徴的な存在が、十兵衛なんですよね。死に際こそが大事なんだみたいな鎌倉武士の考え方は、彼にとってどうだっていいんですよ。”大事なことは、自分が心底好きなことをして生きてこられたかどうか”。それは、人生にまつわる一つの真理なんじゃないかと思うんです」

 次回作は、「止観」をテーマにした、織田信長を倒そうとする3人の「道士」の話だという。そこではどんな真理が導かれることになるのか、楽しみでたまらない。

垣根涼介
かきね・りょうすけ●1966年、長崎県生まれ。筑波大学卒業。2000年『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞。04年『ワイルド・ソウル』で、大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の史上初となる3冠受賞。05年に『君たちに明日はない』で山本周五郎賞、16年に『室町無頼』で「本屋が選ぶ時代小説大賞」、23年に『極楽征夷大将軍』で直木賞を受賞。

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