顔の造作が不明になるほど暴行された女性の正体は? 江戸時代が舞台の捕り物帖ミステリー連作集
PR 更新日:2024/9/4
いつの時代でも、人は時に人を殺める。仇を討つため、大切な人を守るため、稀に「愛すればこそ」命を奪う選択をしてしまう場合もある。どんな理由があったにせよ、その行為は決して正しくない。織守きょうや氏によるミステリー小説『まぼろしの女 蛇目の佐吉捕り物帖』(文藝春秋)は、人間の執念と因縁がもたらす歪な結末を情緒豊かに描き出す。
物語の舞台は、江戸時代。五話の短篇からなる本書は、一話ごとに異なる事件が描かれる。主人公の佐吉は、相生町一帯を取り仕切る岡っ引きの役割をまっとうするべく、日々奮闘していた。岡っ引きとは、町奉行所の下級役人のお抱えとして、罪人の探索・逮捕を担う人物のことを指す。信頼のおける岡っ引きとして定評のあった父が亡くなり、その後を継いだ佐吉だったが、ある日、凄惨な事件を目の当たりにする。
表題作である第1話「まぼろしの女」に登場する被害者は、あまりに惨たらしい死を遂げた。「顔も身体も傷だらけになるまで殴られて、片目がつぶれて腫れあがって」いたため、人相書きさえ作れない。よってたかってなぶり殺されたであろう被害者は、身元不明の女性だった。唯一の手がかりは、胸の古傷だけ。数少ない手がかりを頼りに聞き込みを行うも、被害女性の身元は知れず、地元の人間ではない可能性が濃厚とされていた。ただし、目撃情報から下手人の見当はついており、佐吉は下手人グループの動向に目を光らせていた。しかし、そんな最中、下手人グループのうちの1人が殺害された。立て続けに起こる殺人事件に、町民たちは騒然とする。
謎多き展開に困惑するも、佐吉には頼れる相棒がいた。佐吉の姉が営む小料理屋の常連客・秋高(しゅうこう)である。秋高は若い町医者で、風変わりな格好をしているが、腕がいいと評判の名医だ。医者としての腕が立つだけではなく、鋭い観察眼と洞察力を持つ秋高は、佐吉の捕り物に大いに貢献する。
“一人で考えていると、ぐるぐると似たような道を回って、結局袋小路に入り込んでしまう。”
佐吉のこの言葉と似たような経験を持つ人は、存外多いだろう。どんなに客観的に物事を捉えようと努力しても、人間1人が持てる俯瞰力には限りがある。佐吉だけでも、秋高だけでも辿り着けなかった、2人が力を合わせたからこそ辿り着いた結末は、あまりに悲しく、被害女性の最期同様に酷いものであった。「まぼろしの女」――このタイトルの意味が判然とする第1話の終わり、江戸時代に起きた事件と令和における社会情勢がいみじくも交錯する。
このほかにも、ある女性が新婚早々に首のない死体となって見つかった事件、余命いくばくもない病人が殺害される事件など、さまざまな事件とその謎解きが描かれる。どの事件においてもいえるのは、人が人を殺す理由は一概には言い切れないという点である。「正義の反対は正義だ」と、誰かが言った。正義の反対が分かりやすく“悪”だったなら、世の中はどれほど簡単だろう。
罪人の咎を定める権限を佐吉は持っておらず、お沙汰は奉行所に委ねられる。佐吉にできることは、起きた事件の下手人を見つけるところまで。その後の下手人の人生や世間に広まる真偽不明の噂話は、佐吉の手の及ぶところではない。ある事件において、佐吉は罪人に対して「咎められるべきだとは思わない」との考えを抱く。そのあとに続く佐吉の言葉を、強く胸にとどめておきたいと思った。
“しかし、それを決めるのは佐吉ではない。”
私たちは、少なくない頻度で物事を間違える。だから、安易に何かを決める権限を持っていると思い込むのは、きっと危ういのだろう。起きた事件の真相と共に明かされる人々の無念や想いの欠片が、時代を超えて現代に流れつく。そんな物語の奥底を漂う人の業と哀しみを、佐吉と秋高のバディがそれぞれの持ち味で掬い上げる。本書のラストで描かれるように、辿り着いた真相が必ずしも真実とは限らない。その可能性を常に持ち続けることが、私たちにできる唯一のことなのかも知れない。
文=碧月はる