担当編集を癒すために書かれた小説『喫茶ドードー』シリーズ。店名の由来や、物語に込めた想いとは【第3弾刊行記念・標野凪インタビュー】

文芸・カルチャー

PR 更新日:2024/9/30

標野凪さん

 おひとりさま専用カフェ「喫茶ドードー」を舞台に、訪れる客の心と体を店主そろりの料理が優しくほぐしていく連作短編集。累計25万部突破、読者自身も癒されると人気のシリーズだ。『今宵も喫茶ドードーのキッチンで。』『こんな日は喫茶ドードーで雨宿り。』に続き、第3弾『いつだって喫茶ドードーでひとやすみ。』が2024年8月7日に刊行された。カフェを経営する著者自身の体験も踏まえて描かれた、本シリーズの誕生背景や物語に込めた想いとは。

――森の奥にあるおひとりさま専用カフェ・喫茶ドードー。「自己肯定力を上げるやかんコーヒー」(1巻)や「時を戻すアヒージョ」(2巻)、「白黒つけないケークサレ」(3巻)など素敵なメニューに癒されてお客さんたちが自分自身をとりもどしていく連作短編集です。その設定はどのように思いつかれたのでしょう?

標野凪(以下、標野) 私を癒す物語を書いてください、というのが担当編集者からの最初のオーダーだったんです。毎日一生懸命に働いて、もちろんやりがいのある瞬間はあるけど、疲れて自分自身を見失うこともある。そんな日々を潤してくれるような物語を読みたいと。食をテーマにした小説でデビューしたこともあり、おいしいものを登場させてほしいとも言われていたので、舞台は、彼女のように頑張る女性がふと立ち寄ることのできる喫茶店にしようと決めました。私自身、コロナ禍で飲食店を営んでいたこともあり、くたくたに疲れていたんですよね。毎日、家に帰るたびに「ああ、今日も生き延びられた」とほっとしていたので、訪れた人が心を守られるような気持ちになるような、逃げ場としてその喫茶店が機能してくれたらいいなと。

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――それで、庭つきの自然豊かな場所に。

標野 作中にも登場する『森の生活』というエッセイをヒントにしました。ソローというアメリカ人作家が、2年間、都会を離れて湖のそばにある森で生活し、自分にとって本当に大事なものに気づいていくというもの。その本を参考に、人生の夏休みのような気持ちで喫茶店を開く、そろりという店主が最初に生まれました。彼もまた、せわしない日々のなかで傷つき、ドロップアウトした人で、飲食で身を立てていこうという気概があるわけではない。だとしたらきっと、提供する料理もサンドイッチとかマシュマロを焼いただけとか、キャンプ飯みたいなものになるだろうなあ、と。だから意外と、メニューは簡単に作れるものばかりなんですよ。

――言われてみれば。でも「心が雨の日のサンドイッチ」とか、一つひとつの枕詞が素敵なので、全然簡単そうには感じられなかったです。

標野 訪れるお客さんの悩みにあわせてメニューを決める、というのは書きながら次第に決まっていったことでした。実は、喫茶店の名前も、最初はドードーではなかったんですよ。

――え、こんなに重要なアイコンなのに!

標野 最初はバーバーだったかな。店に飾られたドードーの絵が語るパートをときどき挿入しているのですが、実はそれ、最初は(『森の生活』の著者の)ソローの役目だったんです。ところが読んだ担当編集者さんが、ドードーだと勘違いして。それもいいなあ、と思って書きなおしました。結果的に、それがよかった。『不思議の国のアリス』はもともと好きで、ドードーの名前の由来が「のろま」だということも知っていたけれど、物語の中心においたことで、お客さんが迷い込んでいく雰囲気と重なりましたし、のろまに、自分なりのペースで歩めばいいのだというテーマにも繋がっていきました。

標野凪さん

――ドードーの絵を、そろりにプレゼントしたのは、1巻に登場する70歳のデザイナー・睦子さん。基本、一話完結型の本作で、彼女だけは3巻までずっと登場しますね。

標野 1巻でさまざまな世代の女性たちを描くなかの一人、というだけの位置づけだったのですが、想像していたよりも彼女とそろりの相性がよかったんですよね。私もカフェの店主としてお店に立っていると、ときどきそういうことがあるんです。他のお客さんとはまた違う、この人とは本心を打ち明けあうことができるし、関係を長く続けていけるなと直感する相手に出会うということが。思えば、睦子の描いた絵を店に飾ろうと決めた時点で、そろりにとって彼女は特別だったんですよね。恋愛という意味ではなく、この人の絵ならきっと店を守ってくれるだろうと思わせてくれる何かがあったのだと思います。

――そういうお客さんは、最初から何かが違うものなんですか。

標野 このお客さんはきっとこれからも通い続けてくれるなとか、この人はこれっきりだろうなとか、そういうこともだいたいは、最初にわかります。リピーターさんだからといって、そろりと睦子のような関係になれるわけではないですし、こればかりは相性としか言いようがないのですが、ゆっくり信頼を育み、関係を熟していけるだろうと感じるお客さんにも、なんとなく察するものがありますね。私自身にその体感があるから、睦子というキャラクターも育っていったのだと思います。

――睦子という、くりかえし登場するキャラクターがいることで、悩みがひととき解決したからといってそれで何もかもがうまくいくわけじゃない、というリアルが描かれるのもよかったです。70歳になっても、人はこんなふうに迷いながら、ぐるぐるしながら、自分なりに前に進んでいくのだ、それでいいのだと言ってもらえている気がして。

標野 そこに行けば何かスペシャルなことが起きて人生観が変わる、みたいな小説も読むぶんにはとても好きなのですが、お店に来たくらいで人は劇的に変わったりしない、というのは、私自身、体感していることなので(笑)。この物語でも、悩みや迷いを解決するのはあくまで登場人物自身。そろりではない、と思っていました。彼にできるのは、場を提供し、そっと手を差し伸べるだけ。あまりに華やかな食事だと、見栄えに気をとられて気持ちがごまかされてしまうかもしれないけれど、そろりの提供する食事はごくシンプルなものばかりだから、お客さんはみんな、その味わいと自分自身の心に静かに向き合うことができる。そうすればやがて、自分自身の力で立ち直っていける……そういう力が人にはそもそも備わっているはずだと、私は信じているんです。だから正直、この小説シリーズでは、あんまり大したことは起きていないんですよね(笑)。

――でも、日常ってそういうものですよね。スペシャルなことではないし、人から見ればどうでもいいことかもしれないことが、大事件のように心を蝕んだり、疲弊させたりする。

標野 ひとつ解決したと思ったら、またひとつ悩みが生まれて、尽きないですよね。だからこそ、喫茶ドードーで起きるスペシャルな何かだけで、解決するはずがないとも思うんです。よく喫茶ドードーに行ってみたいという感想をいただき、それはとてもありがたいことですが、大事なのはその場所に行くことではなく、自分なりの逃げ場を見つけて、自分を見つめなおす時間を持つことなんじゃないかなと思います。そして逃げ場に滞在できるのは一時期だけ。ずっとそこにいるわけにはいかないから、けっきょくは現実で出会う人たちのなかで揉まれていくしかないのだとも。

――2巻で、夏帆という女性が、同僚の若いはづきに「こんなつまんない仕事、わざわざする必要ないんじゃない」って言う場面がありますよね。その言葉ははづきを傷つけますが、ドードーに通ううち、夏帆が自尊心をとりもどしていったことで、はづきに対する態度も変わる。結果的に、ドードーを知らないはづきも救われているのがいいなと思いました。

標野 夏帆は、よかれと思ってその言葉を言うんだけれど、無自覚に誰かを差別して傷つけてしまう「マイクロアグレッション」という言葉を知ったことが2巻を書くきっかけでした。ああ、私もやってしまっているだろうなあ、と思ったんです。たとえばお客さんに無遠慮にかけた言葉で、傷つけていたかもしれないのに、自分ではいいことをしたと思って得意になっている、みたいなことが。聞こえのいい言葉を、つい便利に並べ立ててしまいがちだけど、そこに心はきちんとこもっているだろうか、相手に寄り添うってことを本当に考えられているだろうか、と顧みることを忘れちゃいけないという自戒もこめています。

――そろりさんのセリフにもありますね。繋がりや絆など、表面的に美しい言葉こそ、使うときは用心深くならなくてはいけないと。

標野 もちろん作品を書いた今も、私は無自覚に美しい言葉を便利に使っているかもしれない。でも、そういう可能性があると知っているのといないのとで、全然違うんじゃないかなと思います。知って、気づいて、気を付けて、その積み重ねで歩んでいくことで、小さくても何かが変わっていくはずだと信じるしかないのだと。

標野凪さん

――3作目『いつだって喫茶ドードーでひとやすみ。』の第一話には「霧の中にあるパイ包み焼き」が登場します。「霧の向こうには、また霧が」というそろりさんの言葉がいいなと思いました。どうしても霧を晴らそうとしてしまうけど、霧だらけの人生を、どうにか進んでいけばいいんだなと。

標野 先ほどの話と重複しますが、モヤモヤすることって日々、いろんなところから生まれて、決して消えることはない。頭を抱えるような大きな悩みでなくても、毎日何かしらモヤっとしながら、やり過ごしていくしかないんです。むしろ、いちいち解決しようとしたらつぶれちゃうくらい、キリがない。蚊取り線香の煙を出してみんなの悩みを飛ばせたらいいな、なんてくだらないことをそろりは言っていますけど(笑)、そもそも自分が何にモヤモヤしているのか上手に言語化できない人のほうが多いでしょうし、簡単に答えが見つからないなか、答えが見つかったとしてもどうにかできるわけではない人生を、どうやって歩いていけばいいのか、その模索の過程を4人の女性たちを通じて描けたらいいなと思いました。

――これまでの一話完結型と違って、今作は一冊をとおして4人+睦子さんの迷いを描く、群像劇になっていますね。

標野 それは、3作目だからこそできたことだなと思います。登場人物一人ひとりを、短編の短さではなく、一冊の長さで見守ってみたかった。だからこそ、今作はこれまで以上に、登場人物たちが足踏みしている時間が長いような気がしますね。たとえば、母から継いだパン屋さんを移転しなくてはならなくなった三晴は、立ち退きしなくちゃいけないのに新しい店を見つける気配がないから、どうするだろうと私自身、ハラハラしていたんですけど(笑)。最終的に「そう来るか!」という転換を決めたので、感心してしまいました。それは、著者の私が思いついたというより、彼女の足踏みが導き出したことなんですよね。

――どうしても急いで答えを出したくなるけれど、足踏みする時間もきっと、ときには必要なんでしょうね。

標野 そう思います。翠も、コロナ禍で職場がなくなると同時に離婚して、新しい仕事が見つからないままどんどんお金がなくなっていくので、三晴以上に心配していたのですが、なんでもいいからとりあえず、と始めた仕事で得た出会いが、成長するきっかけとなって、自信のなさは変わらないけど、それでも少しずつ強くなって……。永遠に続く関係じゃなくても、ほんのひととき、一緒に過ごした相手に影響されて、人生が良い方向に転んでいくってこともあると思うんです。だから喫茶ドードー以外の場所で、彼女たちがどう生きるかというのも、本作では描きたかったことでした。

――それこそ、絆とか繋がりとか、永続的に続くものを求めてしまいそうになるけれど、求めるからつらくなることもありますよね。つかのまでもいいんだ、今この瞬間、前を向ければ。と思えるのも、この作品の魅力です。

標野 癒しって、そもそもそういうものですよね。担当編集者さんがほっと息をつけるような作品、という明確なビジョンがあったので、今作は頑張る女性たちに向けて書きましたが、私自身、コロナ禍を経て迷うことばかりでした。その葛藤がそろりにも映し出されているから、3巻で彼はあのような決断をしたのかもしれないな、と思います。最初から最後まで、一途に貫けたらそれはもちろんすばらしいことだけど、自分がいちばん居心地のいい生き方を見つけるために、そのつどやり方を変えたっていいんだと、私自身が言ってほしかったところもあるのかもしれない。喫茶ドードーの扉を開くように、読者の皆さんも本を開いて、つかのまの逃げ場として滞在したあとは、ご自身なりののろまなペースをとりもどせていたらいいなと思います。

取材・文=立花もも 撮影=川口宗道

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