川谷絵音のエッセイ連載「持っている人」/第1回「赤からを食べた日」
更新日:2024/10/18
僕はごく稀に役者の仕事をする。役者と名乗るのも恥ずかしいくらい演技にはコンプレックスがある。
まず、リハーサルがちゃんとできない。本番前に同じ演技を同じ熱量でやるということが恥ずかしくてできない。監督はもちろん、カメラさんや照明さん、音声さんなどの技術スタッフの人にとっても、リハーサルを本番に近い演技でやる必要があることはわかっている。もちろん自分自身にも共演者にとっても必要なことだ。でもいざやろうとすると、今までどこに潜んでいたかわからない量の”照れ”が身体中を駆けずり回る。「本番でちゃんとやるんで…」。全身のくすぐったい感覚が一致団結した時に出る僕の言葉は決まってこれだった。
音楽のライブリハーサルにはお客さんはいない。だが本番になるとたくさんのオーディエンスを前に演奏する。リハーサルは抜いて本番は本気でやる。
ミュージシャンの職業病ともいえる本番至上主義が染み付いてしまっていた。それが理由で数々の役者現場に迷惑をかけた。
もう演技は向いてないからやめようと思っていた矢先、映画の主演のオファーが届いた。「え?僕に?」何度も悩んだが、監督からの手紙に書かれた熱い気持ちに答えたくなって引き受けた。「ゼロの音」という作品で、将来有望なチェリストがジストニアという病気で夢を絶たれ、市役所で働き始めるという話なのだが、僕も声帯ジストニアを患ったことがあった。それを監督が知っていたわけではないと思うが、その時に僕は少し運命を感じた。
長い拘束時間や体力、精神面への負担から所属事務所であるワーナーのスタッフには止められたが、この機会に演技というものに向き合ってみようと思い、出演を決めた。
それからは今までぼーっと見ていた映画を演技の観点から見るようにしてみたり、鏡の前で喜怒哀楽の表情を作ってみたりした。しかし演技の前に待っていたのは途方もないチェロの練習だった。バッハの中でも難曲といわれる無伴奏チェロ組曲第6番(サラバンド)の演奏尺は1分もあった。他にも数曲覚えなくてはいけなかったし、奏法もギターとは何から何まで違っていた。先生によるチェロの演奏動画を見ながら、僕は人生の中でトップ3に入るくらいの絶望を感じていた。プロのチェリスト役であることはわかっていたが、手元が映るのなんて一瞬だろうとたかを括っていたのだ。
撮影の2ヶ月前からチェロの練習がスタートした。バンドのスケジュールの合間に先生のレッスンを受け、夜は毎日家でチェロを弾いた。ギターを弾く時間は減り、多分ギターが下手になった。ピックよりも弓を持つ時間の方が長くなった。台本のセリフに向き合う余裕などなく、ひたすらチェロを後ろから抱きしめる毎日。YouTubeの再生履歴はチェロの動画ばかりになり、この時期に好きになったチェリストもたくさんいた。
思い返すと豊かな時間だった。クラシックには心を落ち着ける何かが確実にあった。子供の頃、クラシック好きな母親が家で毎日流していた時は地味だなと思っていただけだったが、自分でその旋律を奏でるとその美しさにうっとりする。倍音の美しさの中にある独特な空気感が心臓に触れそうで触れない距離に常にいてくれる。包み込まれた心はゆったりとした呼吸に合わせて振動し、その心の動きに合わせて脳が心地良く波を作って吐き出す。その波がチェロの倍音に混ざって聴こえてくるような感覚のループは、ひたすらに美しかった。自分の魂が、弾いた音に乗ってくるような体験は、電気を通さない楽器ならではだと思ったし、チェロの響きを常に身体で直接感じることができて、もはやチェロは身体の一部になっていた。
練習期間中、体力的にはかなり追い詰められていたのに、精神的には割と良い方に充実していたのはクラシックのこの美しさ、豊かさ、チェロの背中から感じる温かさのおかげだったと思う。
川谷絵音(かわたに・えのん)
日本のボーカリスト、ギタリスト、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー。1988年、長崎県出身。「indigo la End」「ゲスの極み乙女」「ジェニーハイ」「ichikoro」「礼賛」のバンド5グループを掛け持ちしながら、ソロプロジェクト「独特な人」「美的計画」、休日課長率いるバンドDADARAYのプロデュース、アーティストへの楽曲提供やドラマの劇伴などのプロジェクトを行っている。