【松本清張賞受賞】なぜ人は無許可で壁面に「書く」のか。“グラフィティ”が社会を揺るがす物語。

文芸・カルチャー

PR 公開日:2024/9/11

イッツ・ダ・ボム"
イッツ・ダ・ボム』(井上先斗/文藝春秋)

 壁面や電車の車両に描かれる文字や絵のことを「グラフィティ」と呼ぶ。グラフィティは、所有者に許可を得ることなく、街中にスプレーやステッカー、マーカーなどを用いて何らかのメッセージを放つ。時に「落書き」とも称されるこれらの作品について、恥ずかしながら私はこれまで無知であった。しかし、井上先斗氏のデビュー作『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋)を読み、グラフィティの存在とそこに息づく精神性を知った。

 私は本記事冒頭で、「描かれる」という言葉を使った。だが、本書では、グラフィティは〈描く〉のではなく〈書く〉のだと主張している。

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“グラフィティは全て「俺はここにいたぞ」という署名で、それを記した者のこともアーティストではなくグラフィティライターと呼ぶ。”

 全2章に分かれる本書の第1章は、「ライター」である大須賀アツシの目線で語られる。大須賀は、物書きとしての実績を作るべく、著書の刊行を目論んでいた。そんな矢先、グラフィティライターとして注目を集めるブラックロータスが登場し、大須賀はその存在について書籍にしようと奔走する。

 ブラックロータスは、社会を風刺するメッセージを一風変わった方法でボムしていた。「ボム」とは、“街中に自身のグラフィティを書くことを意味する言葉”である。特に無許可での行為を指すニュアンスが強いこの言葉には、文字通り「破壊」の意味合いが込められている。新鋭・ブラックロータスを一躍有名人に押し上げたのは、写真家の大宅裕子だ。大宅は、5歳から20歳までニューヨークで暮らしており、グラフィティの存在が間近にある環境で育った。そのため、カメラを手に入れてからはグラフィティをコレクションするのが趣味になり、最終的に業界のトップランナーにまでのぼり詰めた。グラフィティが何を意味するのか、はじめはわからなかった大宅だが、撮り続けるうちに「これは声なんだ」と気付く。

“「声、叫び、シグナル、信号、サイン」”

 大宅から見て、グラフィティとはそういった類のものであった。大宅が撮ったブラックロータスのグラフィティは、瞬く間に拡散され注目を集めた。しかし、その後、ブラックロータスのある作品が大炎上を巻き起こす。

 炎上を機に、ライターの大須賀は大宅やグラフィティライターたちへの取材を開始する。取材を進める中で、TEEL(テエル)と名乗るグラフィティライターが気になる発言を口にした。その発言により、大須賀は予想もしていなかった事実へと導かれていく。

 その後に続く第2章は、TEELの語りで紡がれる。グラフィティと一口に言っても、行う者の主義主張はそれぞれ異なる。その違いが生んだ軋轢、何らかの事象を単一化して見る世間の目、グラフィティ同士の真っ向対決。物語が進むごとに表れる各々の心象風景に、私の心は静かに高鳴った。

“普通に生きている人の真っ当さを踏みにじるノリはもう流行らない。”

 この一文を読んで、「本書そのものがグラフィティなのではないか」と感じた。表層だけを眺めて真実を見出した気になる大勢の人々、痛烈なメッセージを「よく言った」と持て囃し、一方で「正しくなさ」を批判する大人たち。そのジャッジはすべて個人の感情に委ねられ、法律のような揺るぎない規範がない。しかし、感情論で紡がれる批判やジャッジほど、驚くほどのスピードと範囲で拡散される。そのような社会に向けて、本書は「声」を上げているように思えた。

 残した声のゆくえ、ブラックロータスが“本当に壊したかったもの”、なぜ人は「書く」のか、あるいは「書かない」のか。さまざまなメッセージを忍ばせた本書は、淡々としながらも熱い意志と信念を携えている。「書く者」として、この物語に出会えてよかった。声を残すことは、時に罪深い。そのことを踏まえ、それでも書くのか、なぜ書くのかを自問自答しながら、私はスプレーの代わりに、今日もパソコンの画面に向かう。

文=碧月はる

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