「金閣寺は焼かれなければならない!」三島由紀夫とチュートリアルの「妄想漫才」との共通点/斉藤紳士のガチ文学レビュー⑮
公開日:2024/10/7
日本文学史に金字塔のように聳える不朽の名作、それが三島由紀夫の『金閣寺』である。
実際に起きた金閣寺の放火事件に材を取った作品ではあるが、由良へ出奔して金閣を焼こうと決意する場面など三島の創作の部分は多い。
文学作品として評価の高い『金閣寺』には「笑い」の入り込む余地などなさそうだが、そんなことはない。
文豪と呼ばれるような人物ほど常人とはかけ離れた感覚を持ち合わせている。その実社会との「ズレ」こそが笑いを生むのである。
『金閣寺』において、その「ズレ」を感じさせる重要なファクターのひとつが「美意識」である。
私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素朴な僧侶で、語彙も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此世にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。
金閣寺の美に憑かれた溝口という学生が、金閣寺に火を放つまでの経緯を、一人称告白体で綴っていく。それが金閣寺の大まかなあらすじである。
ところがそこには溝口の抱く身体的なコンプレックスや歪んだ初恋と失恋の顛末、自ら命を絶ってしまう友人や父の死、倒錯した金閣への憧憬など文学的なテーマがふんだんに盛り込まれている。
特に金閣寺の美しさに対する執着はもはや呪詛ともとれるもので、その想いは肥大し、現存する金閣自体が相容れない存在となってくる。
心の中の金閣の絶対的な存在感のせいか、嫉妬なのか、はたまた少し前に流行った蛙化現象のようなものなのか、溝口は金閣寺を焼失してしまおうと画策する。
漫才の世界には「妄想漫才」というジャンルがある。確立したのはチュートリアルさんだろう。
「バーベキューで具材を串に刺す順番」に異様な拘りを見せたり、「冷蔵庫のどこに何の食材を配置するのか」を執拗に訊き、その答えに一喜一憂したりする。
まるで拘りのコーディネートや新車の内装をどうするかについて熱っぽく話しているかのように、バーベキューの串に具材を刺す順番と冷蔵庫で冷やす食材について訊いてくるのである。
正直、どうでもいい話だ。
でも、この「どうでもいいこと」に不釣り合いな熱量で妄想を膨らませるところに笑いは生まれる。
当然、演技力も笑いの量に大きく影響してくるが、自転車のチリンチリンと鳴らすベルが盗まれただけで毎晩ベロンベロンになるまで飲み歩いてしまう、と本気で告白されたら思わず笑ってしまうだろう。
もちろんこれらの「妄想漫才」と溝口の金閣寺に対する想いは同じ類のものではない。
しかし、どこかあまりに過剰で笑ってしまうような熱量を感じてしまう。
金閣寺が空襲を受け、焼失することを密かに願っていた溝口は終戦の詔勅を聞いて絶望する。
『金閣と私との関係は断たれたんだ』と私は考えた。
いや、怖いな! 「私との関係」ってもう恋人気取りやん!
とも思うが、その妄想に説得力を持たせてしまうほどの三島の筆の迫力、描写の精緻さには脱帽してしまう。それこそが漫才における「演技力」に通じる部分なのだろう。
そして溝口はついに「笑える妄想」を逸脱し、「笑えない想い」に辿り着く。
しかし今までついぞ思いもしなかったこの考えは、生れると同時に、忽ち力を増し、巨きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、こうであった。
『金閣を焼かなければならぬ』
実存としての姿を消してしまった金閣寺は「生きよう」と決意する溝口の中で生き続けるのだろうか。先に実体を無くし「認識」になった初恋相手や友人、そして父のような存在に金閣寺も昇華したのだろうか。
できれば金閣寺への放火も「妄想」だけで終わらせてほしかったものだ。