連載10周年の『天堂家物語』。明るく描かれる切ないテーマが読者の胸を打つ、みなしご少女と名家子息のロマンス漫画
PR 公開日:2024/9/21
斎藤けんは不思議な作家だ。明るく健やかなコメディのような読み味のなかで、深い寂しさを描いている。
連載10周年を迎える『天堂家物語』(白泉社)はそんな斎藤けんのエッセンスが凝縮した作品だ。本作は山で暮らしていた少女が、偽の花嫁として名家に入っていくところから始まる。“らん”と名乗ることになった少女は、育ての親であるじっちゃんを亡くし、生きる理由を失って「人助けをして死ぬ」ことを決めていた。そんならんが向かった天堂家は、不穏な噂が飛び交う呪われた家であり、偽の婚約者としてらんを迎える天堂雅人も秘密を抱えている。
『天堂家物語』は、そんな数奇な出会いから始まる、大人と子どもの狭間にいるキャラクターたちの恋物語だ。強い芯を持ちながら生きる意味を見失っているらんは、超人的で飄々としている反面、素顔は無邪気で何も知らない子ども。陰謀が渦巻く名家で復讐を願う雅人は、大人の世界の人物という顔をしているが、やはり本当はただの不器用な少年であり、心の奥に純粋な部分を持っていることがわかっていく。素直になれなかったり自分の心が見えなかったりする、大人の手前にいるふたりの恋は、もどかしいくらい不器用でじれったく、それが眩しい。
そんならんと雅人が結んでいく絆の根底には、斎藤けんが大事にしてきたテーマがある。孤独や家族というものが持つ毒、呪いだ。『花の名前』では両親を失った少女と心に闇を抱えた小説家を、中編『さみしいひと』(いずれも白泉社)でも親の呪いと和解が大きなテーマになっている。『天堂家物語』では、生きる意味を見失った主人公・らんや、家への復讐に執着する雅人をはじめ、天堂家に関わる誰もがさまざまな孤独と歪みを抱えている。家を巡る物語でありながら、その実誰もが“帰るべき場所”を持たない人々であり、悲しい子どもだ。正反対に見えるらんと雅人は、根の部分では同じ寂しさを持っているのだ。
テーマも舞台・設定もいかにも重いのだが、本作が稀有なのは、読み味はむしろ明るいところだ。
じっちゃんのもとへ行くために死のうとしているらんは、一方で天真爛漫で、底抜けに明るい少女でもある。冷たく恐ろしい雅人とのかけあいもユーモアたっぷりだ。らんは護身術という域を超えた武術など、超人的な能力を身につけているが、普段の姿は驚くほど子どもであり、天然で抜けたタイプ。そのギャップも面白い。『天堂家物語』のスタートとほぼ同時期に連載していた『かわいいひと』などは、ほのぼの系のロマンス作品だったが、緊張感のある本作でもコメディのエッセンスが効いている。恋に戸惑う子どもっぽい一面は、笑えるだけでなく思わずキュンとなるポイントになっている。
このコメディ要素は単に話を明るくしていたり、笑えたりするだけではない。雅人を守るためにときに苛烈で大胆な行動も取るらんが、素顔はただの子どもであるという事実は、ギャップとして映るだけでなく、読み手に悲しさも覚えさせる。普通の境遇なら無邪気な子ども時代を過ごしているはずの少女が、運命と歪んだ宿縁に巻き込まれる悲しさだ。だからこそ、読者にらんがただの少女に戻る日を強く願わせる。明るさが、物語の切なさをより際立てるのだ。
読み進むにつれてそういう気持ちは、ちっとも素直じゃない雅人や、やはり天堂家に運命を狂わされた登場人物たちにも向いていく。そういう意味で、連載10年を迎える今がまさに面白いところと言っていい。
ストーリーがどんどん核心に近づいているだけでなく、近刊ではらんと雅人の関係も大きな変化を迎えた本作は、今こそ読んでほしい作品だ。
文=小林聖