信長は何度も城を変えていた? 城を知れば人物像が見えてくる。名城を建てた武将たちの物語/武将、城を建てる①

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更新日:2024/11/7

清須城の改変

 天文二十年(一五五一)、父の信秀が四十二歳で急逝したため、十八歳の信長が家督を相続した。まだ尾張統一は完成しておらず、国内には両守護代家がかなりの力を持ち、隣国には斎藤氏(美濃)と今川氏(駿河・遠江)という強大な大名がいた。信長はすでに美濃の斎藤道三の娘(濃姫)と結婚して濃尾同盟を結んでいたものの、道三は主君を追放して一国を奪った梟雄。いつなん時、婿の信長に牙を剝くとも限らなかった。しかし、天文二十二年(一五五三)前後に正徳寺で会見して以降、信長は義父・道三の後援を得られるようになった。こうして国内で勢力を伸張させた信長は、弘治元年(一五五五)、尾張守護・斯波義統の子(義銀)を奉じて守護代(織田大和守家)信友を倒し、その居城である清須城を手に入れ、自分の居城としたのである。

 清須城は、尾張守護・斯波義重が十五世紀初めに守護所である下津城の別郭として五条川左岸に設けたもので、文明十年(一四七八)からは守護所をこの清須に移しており、以後、清須は尾張繁栄の中心地となっていた。ただ、清須城は信長の死後、次男の信雄によって大きく改修され、江戸時代になると城の城下町は家康の命で名古屋へ移されてしまった(清須越)。しかも城跡一帯が宅地化し、信雄時代の本丸(清洲公園)の堀や土塁跡ぐらいしかわからなくなっていた。しかし近年、発掘調査が進み、多くの遺物や遺構が見つかり、大型の方形居館跡なども出土するようになった。

 研究者の鈴木正貴氏は信長の清須城を前期清須城、信雄の清須城を後期清須城と分けたうえで、「前期清須城は、未解明な部分は多いが、方形居館群であることは間違いなく、足利将軍邸を模した守護館を中心とした城郭・城下町」(「清須城」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何か その成果と課題』所収 サンライズ出版)だと論じている。ただ、「二重堀の居館」(前掲書)は「他国の守護館には見られない」(前掲書)ので、「尾張国に特有なもの」(前掲書)ではないかとする。とはいえ、新しい時代を画するような後の信長の城の特徴は見いだせないと述べている。

 研究者の中井均氏も、信長(織豊系)が那古野城から清須城へ移ったのは、「信友を滅ぼし、主家の居城に入城することにより守護代家に取って代わったことを示した」(中井均著『信長と家臣団の城』角川選書)のだと主張。その理由として、清須城の構造が「これまでの発掘調査では信長時代に大きく改修された痕跡が認められない。つまり従来の守護館的な構造を信長はほとんど手を加えることなく居城としていた」(前掲書)ことから、「信長は自らの独自の築城をおこなうのではなく、あくまでも守護所に居城することが重要」(前掲書)だと考えたのだという。

 鈴木・中井両氏はこのように、信長の前期清須城は中世の守護所のような二重堀で囲まれた方形居館だったと考えているわけだ。一方、研究者の千田嘉博氏は、清須城の中心部は近年発掘で見つかっている大型城館跡ではなく、その後、信長の次男・信雄が大改修した「近世清須城本丸周辺」(千田嘉博著『信長の城』岩波新書)ではないかと推察する。このように発掘が進んでいるものの、研究者の間では、清須城が昔ながらの守護館なのか否かの一致をみていない。そういった意味では、今後の研究の進展が待たれる城といえるわけだ。

<第2回に続く>

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