実は城づくりに詳しかった! 建築困難な山に城を建てた明智光秀の優れた築城手腕/武将、城を建てる②
更新日:2024/11/7
『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第2回【全4回】
安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。
優れた築城手腕
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公となったことで印象が変わった明智光秀。かつては、主君・信長を裏切って死に追いやった逆臣というイメージが強かった。じっさい、宣教師のルイス・フロイスは、光秀を次のように評している。
光秀は「全ての者から快く思われていなかったが」、「才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受け」、「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく」、「人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた」(松田毅一・川崎桃太訳『日本史5』中央公論社)
このように光秀を罵倒しているフロイスだが、それでも「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主」(前掲書)と城づくりの腕前は褒めている。さらに、光秀が築いた坂本城についても、信長の安土城に次いで豪華な城で、この城ほど有名なものはないと語っている。坂本城のほかに光秀は、亀山城、周山城、福知山城など、多くの城郭を手がけた。ただ、その優れた築城術をどこで身に付けたのかは、はっきりしない。そもそも、前半生が全くわかっていないのである。
一般的に光秀は、美濃の名族・土岐一族であるとされ、斎藤道三の家臣として活躍するが、斎藤義龍(道三の息子)の攻撃で居城(明智城)を落とされ、浪々の身となってしまう。のちに鉄砲の腕を見込まれて越前の朝倉義景の重臣に取り立てられ、そこで知りあった足利義昭(将軍義輝の弟)と尾張の織田信長との間を取り持ち、室町幕府の復興に貢献したと伝えられてきた。
けれど、こうした前半生は、一次史料(当事者の日記、手紙、公文書など)には全く残っておらず、二次史料(主に後世の史料)の記録や伝承に過ぎないのだ。
光秀が確かな史料に登場するのは永禄十二年(一五六九)のこと。また、太田牛一の『信長公記』(信憑性の高い二次史料)には、この年、義昭のいる本圀寺が三好三人衆に攻撃されたさい、光秀が境内で応戦したとある。光秀は当時、義昭と信長の二君に仕えていたようだ。
ところが、わずか二年後の元亀二年(一五七一)、比叡山延暦寺の焼打ちで活躍をし、信長から近江国志賀郡を与えられ、坂本城をつくりはじめる。織田の家臣として初めての城持ち大名だ。なぜ中途採用組の光秀が、急激に頭角を現したのかはわからない。ただ、先のルイス・フロイスは築城の才に加えて「戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人で」、「選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」(前掲書)と評し、信長も光秀へ宛てた書状で「とても詳細な報告書ゆえ、まるで現場を見ているようだ」と褒めているから、武勇と知略に秀でた頭脳明晰な人物だったのだろう。