実は城づくりに詳しかった! 建築困難な山に城を建てた明智光秀の優れた築城手腕/武将、城を建てる②

文芸・カルチャー

更新日:2024/11/7

敵城を攻略するための城

 天正三年(一五七五)、光秀は信長から丹波攻略を命じられた。丹波国は、信長に追放された将軍義昭の勢力範囲だった。そう光秀の旧主である。しかも山がちなうえ、多く国衆(小さな大名)が盤踞していたので、光秀は平定に大変な苦労を強いられることになった。にわかに裏切られて命の危機に陥ったこともあった。いまも丹波各地には、光秀が敵城を攻略するために築いた陣城(敵城を攻めるとき前線に築いた大将の城)跡や居城跡がいくつも残っている。

 そうしたなかで、最大の城が周山城である。あまり有名でないがスゴい城なので、京都市文化財保護課の馬瀬智光氏の「周山城跡―明智光秀が築いた山城―」(リーフレット京都No.374)を参考に、周山城について紹介していこう。

 周山城は、弓削川と上桂川の合流点の西側、標高約五百メートルの黒尾山に至る丘陵尾根上に位置する、石垣を多用した山城である。この地域を支配していた宇津氏の宇津城を落とした後、丹波支配の拠点の一つとして天正九年(一五八一)頃から光秀は周山城をつくり始めたようだ。

 この城は、若狭と京都をつなぐ周山街道を押さえる場所にあるが、周山の名のとおり、周囲は山ばかりで、当時も城づくりは困難を極めたと思われる。

 周山城の最大の特徴は、二本の堀切をはさんで東西二つの大きな区画(城)に分けられていることだ。東の城は、城山(約四八一メートル)を中心に天守台の立つ総石垣の本丸があり、八方向に延びる尾根全てにも郭が築かれている。

 西の城は、尾根上(標高約四八二メートル)を平坦にし、土塁と堀切で守られた土の城になっている。このように東と西の城は対照的なのだ。

 そんなことから周山城は、京都の城郭史で重要な位置を占めており、織田信長の「武家御城(旧二条城跡)」の築城技術と、豊臣秀吉の「聚楽第跡」の築城技術の間を埋める城と評価されている。

 光秀は天正九年(一五八一)八月十四日、茶人の津田宗及を招いて一緒に月見をしている。果たしてこの山城からどんな月が見えたのだろうか。

 残念ながらこの城は、山崎合戦後に秀吉の手に落ち、天正十二年(一五八四)頃には廃城となった。ただ、その後開発が進まなかったことから、いまも周山城は山の中にあり、遺構がよく残り、石垣の石もあたりに転がっている。現地に立てば、戦国時代の雰囲気を味わえるはずだ。

<第3回に続く>

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