黄金塗りの部屋や凝った庭園を自ら案内! 天下人ならではの豪華な城を建てた豊臣秀吉/武将、城を建てる③

文芸・カルチャー

更新日:2024/11/7

武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第3回【全4回】

 安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。

【30日間無料】Amazonの読み放題をチェック >

武将、城を建てる
『武将、城を建てる』
(河合敦/ポプラ社)

武将、城を建てる

豪華な大坂城

 ポルトガル人宣教師、ガスパル・コエリョら約三十名のキリスト教関係者は、キリシタン大名・高山右近の仲介で天正十四年(一五八六)に大坂城を訪問した。このときのことをルイス・フロイスが書きとめているので紹介しよう。

 サービス精神旺盛な秀吉は、右近に連れられたガスパル・コエリョ一行がやって来ると、自ら大坂城を案内した。豪華な黄金塗りの部屋や技巧をこらした庭園を喜んで見せ、壮麗な天守の中まで連れて行った。梁が低いところでは、秀吉本人が宣教師たちに「頭をぶつけないよう気をつけよ」と注意をうながしたという。

 天守の各階には財宝が充満しており、一行は金糸を縫い付けた寝台や組み立て式の黄金の茶室も目にしている。四階まで上ると、秀吉は彼らに茶を与えて一服させたという。天守の最上階には外廊が巡っており、眼下には多数の労働者が工事に従事している様子が見え、目を遠くに転じれば数カ国を見渡すことができたそうだ。さらに秀吉は、本丸の居館(奥御殿)に宣教師たちを招き入れ、寝室まで見せる厚遇ぶりだった。秀吉が声をかけると、女性たち(秀吉の妻子や側室)が続々と奥のほうから姿を現したという。

 秀吉は、大坂城の周囲を整地して広大な城下町もつくっていった。各地から多くの商人や職人が町に集まってきたが、さらに城下を繁栄させるため、天正十二年(一五八四)、堺の町から商人たちを強制的に大坂城下に移転させた。

 大坂城とその城下町は密接に結びついており、城下町は経済活動や物流の中心地になるだけでなく、城の防御ラインの一部としても機能し、城全体の防御力を高めた。とくに小田原平定さい、小田原城の惣構(総講とも。城下町ごと、堀や土塁・石垣で囲む防御構造)を目にした秀吉は、それを模倣して文禄三年(一五九四)から大坂城に惣構を築いた。

 近年の発掘調査により、大坂城跡から小田原北条氏特有の障子堀(堀の底部を畝状に掘り残して敵の侵入を防ぐ)も発見されている。このように、敵城の長所を臆面もなく取り入れるところが、秀吉のスゴさであった。

 いずれにせよ、大坂城の築城は、これまでとは比較にならない人数を必要とした。山や谷を利用できる山城ではなく、真っ平らな土地に城をつくり上げる必要があったからだ。先述のとおり、堀や石垣はある程度、石山本願寺の遺構を利用できたろうが、広大な平城(大坂城)を造成するため、新たに土を掘ったり、盛り上げた箇所も多かったはず。何より膨大な石材を用いて石垣を組むのは大変な作業だったろう。

本作品をAmazon(電子)で読む >

本作品をebookjapanで読む >

あわせて読みたい