黄金塗りの部屋や凝った庭園を自ら案内! 天下人ならではの豪華な城を建てた豊臣秀吉/武将、城を建てる③

文芸・カルチャー

更新日:2024/11/7

完全破壊された聚楽第

 秀吉は当初、天皇や公家を京都から大坂へ移し、大坂を都にしようと考えていた。京都五山などの主要な寺社も移転させるつもりだった。なぜそれが中止されたかは不明だが、天正十四年(一五八六)になると、京都の平安京大内裏旧跡に邸宅(聚楽第)をつくり、そこに住むようになった。これにより、豊臣政権の政庁は大坂の大坂城から京都の聚楽第へ移った。天正十六年には後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせている。

 聚楽第は、秀吉の邸宅というイメージが強いが、記録によると完全なる城郭であった。数年後に完全に破壊されてしまい、現在その痕跡は残っていないが、残された絵図(聚楽古城図副本)を見ると、聚楽第の「本丸は方形で北・西・南の三方向に口があき、西・南の外側にはそれぞれ小規模な曲輪を備える。周囲は大名屋敷で、北には秀吉の母大政所、南には、弟の秀長やのちに関白の座を譲られる甥の秀次の屋敷が示される。文献調査や発掘調査を踏まえた近年の研究では、本丸の北にも曲輪があったことが確認」(大阪城天守閣編『特別展 秀吉の城』大阪城天守閣)できるという。本丸には、天守(異説あり)が聳えていた。

 さらに秀吉は、天正十九年になると、鴨川(東)、鷹ヶ峯(北)、紙屋川(西)、九条(南)をアウトラインとして、自然の川や池沼、丘を利用しつつ堀と土塁を二十二・五キロにわたってつくり上げ、京都の中心部を囲ってしまった。これを御土居と呼ぶ。その目的は、秀吉の政治拠点である京都を敵襲から守るためだった。また、鴨川の洪水から町を守る目的もあったという。小田原平定のさいに見た小田原城の惣構を、おそらく京都にも導入しようとしたのではなかろうか。ちなみに御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼ぶようになったが、出入口は七口と称される鞍馬口など十箇所ほどしかなかったので、京の人びとは不自由を強いられることになった。

 聚楽第の痕跡が残っていないのは、秀吉が徹底的に破却したからである。天正十九年十二月、息子鶴松が夭折したため、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第の主は秀次に替わった。しかし二年後に秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれたことで、秀吉は秀頼を後継者にしたいと考えるようになり、結果、秀次に謀反の罪を着せて高野山に追放し切腹に追い込んだのである。聚楽第の敷地は更地にされたが、遺構の一部は別の場所に移築された。今も聚楽第の伝承を持つ建物は多いが、西本願寺の飛雲閣や大徳寺の唐門などもその一つで、桃山文化の代表的な建築物として知られている。

<第4回に続く>

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