前代未聞の攻城戦で秀吉の参謀として活躍。三大築城家と呼ばれる黒田官兵衛の城づくり/武将、城を建てる④
更新日:2024/11/7
『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第4回【全4回】
安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。
前代未聞の攻城戦
黒田官兵衛孝高(如水)は、藤堂高虎、加藤清正と並んで三大築城家(三大築城名手)といわれている。ただ、いつからそう称されるようになったのかわからない。それに、他の二人と違って、官兵衛がつくった城郭の石垣や建物が多く残っているわけでもない。
今回は、官兵衛が手がけた中津城と福岡城を紹介したいと思う。
官兵衛は、播磨国の大名・小寺政職の重臣であった。播磨は、強大な毛利氏と新興の織田信長にはさまれた地域だったが、官兵衛はいち早く信長に従うべきだと主張し、主君を納得させて織田方に付かせた。
天正五年(一五七七)秋、信長は毛利攻めのため、重臣の羽柴秀吉を中国地方へ差し向けたが、このとき官兵衛は、遠征の拠点として己の居城である姫路城を秀吉に譲り渡した。また、備前・美作の大大名である宇喜多直家を織田方に寝返らせることに成功する。喜んだ秀吉は、「おまえを弟の秀長同様に思っている」という書状を官兵衛に与え、参謀(軍師)として重用するようになった。
しかし翌年、官兵衛の運命は暗転する。
信長の重臣で有岡城主の荒木村重が謀反をおこすと、官兵衛は説得のために単身で有岡城へ乗り込んでいった。ところがそのまま獄に押し込められてしまったのだ。官兵衛が救い出されたのは、一年後のことだった。だが、陽の当たらぬ狭い土牢に閉じ込められていたので、膝も曲がったままになるなど身体が不自由になってしまった。
天正十年(一五八二)五月、秀吉は官兵衛の進言に従い備中高松城を水攻めにしたが、その最中、信長が本能寺で自刃したという知らせが入った。このとき官兵衛が秀吉に仇討ちを勧めたので、秀吉はすぐさま毛利氏と講和を結んで引き返し、京都近郊の山崎で明智光秀をやぶったといわれる。ただ、水攻めや中国大返しが官兵衛の功績だというのは、黒田家の『黒田家譜』に載る話なので、史実かどうかはわからない。
いずれにせよ、秀吉は翌年、石山本願寺の跡地に大坂城を築くが、その縄張りを担ったのも官兵衛だったと伝えられる。普請惣奉行をつとめたという説もある。なお、官兵衛が築城にあたったのは最初の本丸の普請だけで、二の丸工事以後はあまり関与しなかったらしい。
本能寺の前は二万石程度の大名だった官兵衛だが、四国平定の功により三万石(五、六万石とする説もあり)の大名となり、さらに九州平定後、豊前国八郡のうち六郡に渡る領地(約十二万石)を与えられた。