前代未聞の攻城戦で秀吉の参謀として活躍。三大築城家と呼ばれる黒田官兵衛の城づくり/武将、城を建てる④
更新日:2024/11/7
官兵衛の血筋を引き継ぐ
天正十七年(一五八九)、官兵衛は豊前での統治が軌道に乗ると、息子の長政に家督を譲った。まだ官兵衛は四十四歳であった。当時としてもかなり早い。一説には、主君秀吉が官兵衛の天下簒奪を疑っていたので、その疑念を解くためだったというが、土牢に入れられ身体が不自由になっていたことも、関係しているかもしれない。だが、それからも官兵衛は、秀吉の側近として小田原平定などで抜群の知謀を見せた。
秀吉の死後、官兵衛は京都で連歌や茶を楽しむ悠々自適な生活を送っていたが、豊臣政権はギクシャクしており、慶長五年(一六〇〇)六月、家康は上杉景勝が謀反を企んでいるとして、大軍を引き連れ大坂から会津へ出立した。官兵衛の息子・長政もこれに従った。そこで官兵衛は、中津城に入り、息子の留守を守った。
家康が会津へ向かうと石田三成と大谷吉継が挙兵、さらに大老の毛利輝元が大坂城に入り込み、豊臣秀頼を手中に置き、淀殿や長束正家ら三奉行を仲間に引き入れ、家康の言動を非難する豊臣政権の公的文書を諸大名に送達した。逆賊に転じた家康は危機に陥った。このとき家康のために大きな働きをしたのが長政だった。彼は福島正則、小早川秀秋、吉川広家など、去就に迷う大名を味方に引き入れ、次々と寝返らせていった。こうした知略は、父・官兵衛の血筋を引き継いだのだろう。
結果、関ヶ原合戦は家康の大勝に終わった。
いっぽう、中津にいた官兵衛は、徳川方の許可を得て多数の牢人たちを金銭でかり集め、加藤清正らと結んで次々と西軍方大名の城を落とし、九州を席巻する勢いを見せた。天下分け目の合戦が数カ月は続くと考え、東軍と西軍の勝ったほうと戦って自分が天下を取ろうと考えたのだというが、これは巷説に過ぎず、実際は徳川方と連絡を密にとっての行動だった。いずれにせよ、長政の功績を高く評価した家康は、戦後の論功行賞で長政に筑前一国(五十二万三千石)を与えた。こうして黒田氏は、一気に大大名へと昇ったのである。