「プリキュア」ガチファンの読む『小説 ドキドキ!プリキュア』。『ドキプリ』を通じて描かれる「子どもたち」の姿とは【『小説 ドキドキ!プリキュア』3/3】

文芸・カルチャー

更新日:2024/10/28

小説 ドキドキ!プリキュア
©東映アニメーション

※本記事には作品のネタバレが含まれます。

 2024年9月17日、待望の小説プリキュアシリーズ第7弾・『小説 ドキドキ!プリキュア』(講談社)がついに発売を迎えた。

 著者は『ドキドキ!プリキュア』でシリーズ構成およびメイン脚本を務めた脚本家の山口亮太氏。そして表紙・本文イラストは同作でキャラクターデザインを務めたアニメーターの高橋晃氏。すなわち、お二方ともそれぞれ『ドキプリ』生みの親のひとりである。

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 しかも、描かれるのは『ドキプリ』TVシリーズ最終回の「その後」である。こんなの実質2期でしょ!! 俺たちの『ドキプリ』が、また始まった!!

 本記事では、「プリキュア」ガチファンの筆者が『小説 ドキドキ!プリキュア』を読んで感じたことや、我々「大人」とプリキュアたち「子ども」との関係やあり方を考えたい。

『小説 ドキドキ!プリキュア』、わたしはこう読んだ

 一度この物語に触れてしまうと、『ドキドキ!プリキュア』はいわゆる「2期」に相当するこの小説でやっと完成するのだなと思わされずにはいられない。あの人物の死亡事件に、仲間の裏切り――そういう小説ならではのアウトローチックな展開で心臓をギュッと握られたかと思いきや、「ああ、この作品もちゃんとプリキュアなんだ。ドキプリの続編なんだ」と腹落ちする、いや、せざるを得ないキー要素が並んでいるからだ。

 そもそもの話をしよう。筆者はプリキュアが始まった2004年当初には既に成人を迎えた大人であったし、これを読んでくださっている読者諸氏も、大半は大人だと思う。清濁併せ呑みながら成長して大人になってしまった私たちは、子どもの頃と違って「現実とはこういうものなのだ」とわかってしまっている。言い換えれば、諦めてしまっている。しかしプリキュアシリーズのように夢に溢れた作品を見ていると、そういう現実の理不尽への諦念を一瞬でも忘れさせてくれる。希望や勇気を持たせてくれる……そういう期待を抱きながら小説プリキュアシリーズをひもといた方も少なくないのではなかろうか。

 ところがどっこい! 少し読み進めれば、私たちの甘い期待を打ち砕くかの如く理不尽の大波が押し寄せてくる。目を覆い、立ち止まりたくなるような不幸が頭をぶん殴ってくる。どうしようもない重苦しい悲しみに、作中キャラクターたちも読者たちも打ちひしがれる。しかし――それでも歯を食いしばりながら読み進めた読者と、それでも前を向いて日々を歩み続けたプリキュアたちには、そういう「どうしようもない仄暗い現実」をひっくり返して打ち砕くような爽快さ満載の展開が待っている。そして私たちは、プリキュアとともに真の大団円を掴み取るのだ。

 そう――この小説の本質の一つは、「大人である読者を、子どもであるプリキュアたちの視点に引き込むこと」ではないかと筆者は考えている。メタ視点から救いを求めて相手に重責を課す、大人として読むのではない。一緒に悩み悲しみ苦しんで、それでも希望を諦めず掴み取ろうとする当事者の視点として物語を追っていく。自分事として、追体験していく――この本は、そういうとてつもない魅力と魔力を秘めている。

 先ほど、大人と子どもの対比の話をした。ということで、筆者の考えるこの物語のもう一つの本質についても述べていこうと思う。それは、「原点回帰」。子どもが子どもらしく解放されること、ではないかと思う。

 女の子だって、淑やかさにとらわれず自由に動き回ってみたい。理不尽な敵の出現に構うよりも、大好きなチョコタルトを買いに行きたい。私たちには受験勉強があるのに。世界がどうとかわからないけど、友達が傷つけられるのは嫌。嫌なことがあったら泣いちゃうし、芸能人の素敵な写真を見て友達と騒ぎたい。等身大の夢も、大きな大きな憧れも抱えている。私たちは、プリキュアは、普通の子ども。そういう自由さをずっと唱え続けてきたはずのプリキュアには、しかし、いつしか大きな期待がのしかかってしまった。

 実際、TVシリーズ最終回・第49話「あなたに届け! マイスイートハート!」では、世界中に正体バレをしたマナたちが大人に使命を課されながら活動する様子が見られる。それは、まだあどけない年齢とも言える中学生前後の子どもたちの、あるべき姿だろうか?

 現実世界におけるプリキュアシリーズというタイトルも、作品や子どもたちとかけ離れたところで世間から大きすぎる期待が寄せられ神輿のように担がれる機会が増えてきた。それは常に「自分の足で立って前に進むこと」を大切にしてきたプリキュアシリーズの、あるべき姿なのだろうか?

 そういった使命や重荷から、「子ども」の憧れ、そして映し鏡であるプリキュアたちを解き放ってあげる。最終的に、どこにでもいそうな中学生としての平和な日常を謳歌させてあげる。『キボウノチカラ~オトナプリキュア’23~』が少し成長した大人として社会の課題に向き合っていく作品であるとすれば、『小説 ドキドキ!プリキュア』は子どもとして社会のしがらみから解放されるために対峙していく作品である。西尾大介監督が初代『ふたりはプリキュア』で大切にしたかったもの、いわば“西尾イズム”を継承する。原初のプリキュアの姿を描写し、プリキュア讃歌を謳い上げる。だから『ドキプリ』2期、もとい『小説 ドキドキ!プリキュア』をもって、子どもたちの「生き様」を示した上で原点回帰し、『ドキプリ』シリーズ全体は一つの大団円を迎えた――筆者は、そう受け取っている。

 そしてその大団円を描いた後に、どういうわけか本文の最終ページはとてつもなく不穏な示唆で終わっている。これは続編の匂わせか、あるいは『ゴジラ』(1954)のラストシーンにおける山根博士の警鐘なのか。

 本作は大人社会に――どうしようもなく重いしがらみに縛られた子どもたちが、子どもらしく解放されるまでの物語である。きっとそういうテーマを帯びているから――もしかしたら「倉田」は今度は私たちの心の中から現れてくるのかも知れないけれど、同時に「5000人のプリキュア」も私たちの心の中に生まれて立ち向かっていくのだろうと覚悟ができるし、信じられるのだ。

 だとすると次は、私たちの番。

 私たちが、プリキュアとして立ち上がる番だ。

文=祥太 (SHOWTIME)

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