必要なオマルは70個ではなく72個必要? 文庫化されたら世界が滅ぶ1冊『百年の孤独』の笑いを考察/斉藤紳士のガチ文学レビュー⑱
公開日:2024/11/18
今年話題になった書籍を選べ、と言われたら迷わず挙げられるのがガルシア=マルケスの『百年の孤独』だろう。
半世紀以上前の翻訳小説が令和の現代になぜ空前のヒットとなったのか?
もちろん初の文庫化により、安価で購入しやすくなったということも大きいとは思うが、一部の読書好きにだけ支持されていると思われた本作がここまでのヒットとなったのは他にも理由があるのではないだろうか。
『百年の孤独』は南米コロンビアが舞台のお話である。
ブエンディア家という一族がマコンドという村を築いてから百年で消滅するまでの歴史が奇想天外なエピソードを織り込んで描かれ、いわゆる「魔術的(マジック)リアリズム」を駆使して語られる。
ブエンディア家は百年の孤独を運命づけられているのだが、その原因は血縁の濃い従兄弟同士であったホセ・アルカディオとウルスラが愛し合い、それがもとで殺人を犯して故郷を出奔したことだった。
新たに建設したマコンド村で一族は同じ名前、同じ出来事を繰り返し、最後は再び近親相姦を犯してこの世から消え去ってしまう。
一族の栄枯盛衰を綴った壮大なスケールの大河小説だが、現代人にも通用する「面白さ」の肝は巧みなマジックリアリズムによるおかしみである。
マジックリアリズムは一見、不条理やシュールと混同されがちだがそこには大きな違いがある。
言ってみれば「不条理」や「シュール」は別室に移動するような場面転換が必要とされるが、「マジックリアリズム」は一間続きでも仕切りの向こう側に行くような距離感である。
「話題の飛躍」という点においては同じだが、あくまで現実と地続きである感覚が必要なのが「マジックリアリズム」なのである。
そのマジックリアリズムの使い手として有能なガルシア=マルケスは、作中にさまざまな「魔術」を施している。
例えば長雨が4年と11ヶ月と2日続いたり、アウレリャノ・セグンドという登場人物の妻の愚痴がある朝から始まり翌朝を過ぎてもまだ続いていたり、トイレが混むからという理由で72個のおまるを買ったり、馬が殺せるほどの毒を飲んでも死ななかったり、非現実な超現実な出来事がいくつも起こる。
そのときまで考えたこともなかったが、あるばか騒ぎの夜にアルバロから、文学は人をからかうために作られた最良のおもちゃである、と教えられたのだ。
作中にこんな言葉があるが、実際、我々読者はガルシア=マルケスにからかわれているのかもしれない。
ただ、この無茶苦茶な出来事が頻出する物語を成立させ、しかも高い「説得力」を持たせているのもまた、ガルシア=マルケスの技量なのである。
そこにはディテールまで設定する用意周到さがあり、雨は「4年」ではなく「4年11ヶ月と2日」続き、おまるは「70個」ではなく「72個」でないといけない。
さらに、南米コロンビアの湿度の高い密林の描写、文明を象徴する雑多な小道具の選定、丁寧な人物描写などのひとつひとつが「非現実」と「超現実」に説得力を持たせている。
「不条理」と「シュール」は笑いと親和性が高い。
それがゆえに漫才やコントなどに多用される。
ありえない設定や突然話が飛躍すると容易に観客の虚をつき、笑いが取りやすくなるからだ。
だが、マジックリアリズムに近い笑いは簡単にはつくることができない。
そこには「説得力」という構成や技量が必要だからだ。
昔、立川談志と月の家圓鏡の『談志・圓鏡 歌謡合戦』というラジオ番組があった。
木魚を叩きながらただ思いついたフレーズや作り話や嘘を言い合うだけなのだが、それが実に面白かった。
「カラーテレビってのは後ろにペンキ屋が入ってるそうですね」
「富士山が引っ越したらどうなる?」「琵琶湖に逆さに埋められちゃう」
「インドはオリンピック何が強いの?」「福神漬けの選りっこが強い」
こういった即興の応酬で笑いをとっていくのだが、そこにはとんでもない飛躍はなく、あくまで現実のほんの少し奥にある「非現実」や「超現実」の面白さがあった。
そこに説得力を持たせるのは間違いなく二人の話術の高さだった。
『百年の孤独』が令和の現代になぜリバイバルヒットを果たしたのか?
実はこの物語が非常に古典的な手法で書かれたもので、人間がいかに滑稽で愚かで儚いものなのかという実に普遍的なテーマのお話だからかもしれない。
しかしそこにマジックリアリズムという作者のセンスが問われる技法を取り入れたことにより、この物語は成功を収めた。
難解、とも言われる『百年の孤独』だが、そもそも人間とは複雑怪奇な生き物なのだから、その物語がややこしくて荒唐無稽なのは致し方ないことなのかもしれない。
未読の方は是非良質なラテン文学にからかわれてみてください。