努力で勉強をカバーできなくなった高校生時代に「発達性読み書き障害」と診断を受ける/読み書きが苦手な子を見守るあなたへ⑥
公開日:2024/11/18
『読み書きが苦手な子を見守るあなたへ 発達性読み書き障害のぼくが父になるまで』(関口裕昭:著、千葉リョウコ:イラスト、宇野彰:監修/ポプラ社)第6回【全9回】
読み書きが苦手な子は40人クラスに約3人。原因がわからず学校の課題をこなせなかったくやしさ、苦しさ。障害を理解し、将来を模索し続けた日々。自立するとはどういうことか、学校や家族ができる、よりよい支援の形とは何か? そして発達性読み書き障害について発信を続け、理解を深めていくことの意味は? 言語聴覚士、また父として日々奮闘する著者が希望と決意に満ちたメッセージを『読み書きが苦手な子を見守るあなたへ 発達性読み書き障害のぼくが父になるまで』で綴ります。
※書籍では当事者へ配慮し、すべての漢字にふりがなが振られています。
学校に行きたくない
高校生活の授業初日、人生を一変させる事件が起きます。
その日のいちばん最初の授業は国語。現代文。
いちばん前の席だった僕は、たまたま最初に音読を指名されます。初見の文章。緊張する僕に、クラスメイトの視線が集まります。
そこで僕は何度も止まり、読み間違え、止まってはまた間違え、ボロボロの音読をしたのです。
「この学校に来て、その音読はなんですか?」
先生からそう叱責されました。
この学校……というのは、僕が進学したのが地元の進学校だったからです。
僕は、生徒会や野球部副部長、クラス委員をしていたため内申点がよく、また、努力に努力を積み重ねた結果、定期テストの点数はそれなりに取れていたため、公立の進学校に入学できてしまったのです。
3教科の試験を受ける私立であれば、同じレベルの高校には入れなかったでしょう。
とはいえ、その学校は自分が望んで入った高校だったので、最初の授業を受けるまでは、入学できたことを嬉しく思っていました。
家からも近い、伝統のある公立校で、何より自分が入りたいと思っていた男子校。
そこで、「音読すらできない」とみんなの前で叱られたことで、僕は「勉強ができない」というレッテルを貼られたと思い込み、一気に自信をなくしてしまいました。先生やクラスメイトからそれについて何か言われたわけではなく、自らそう思い込み、自分で殻に閉じこもってしまったのです。
音読ができないのは恥ずかしいことだと僕自身が思っていたから。
できないのは努力不足だと自分に言い聞かせて勉強しましたが、それにも限界がありました。高校では、中学までの勉強法は通用しません。
これまで基本的に丸暗記をしていた教科書も、情報量が多く、到底暗記はできません。
漢字やスペルにひらがなでふっていたルビも、多くてそれだけで勉強時間が終わってしまいます。最初はマルがあって、ここがとがってて……となんとなく形で覚えていた英語は、単語数が増え、似た形が出てきたため判別できなくなりました。「different」と「difficult」では山の形がどう違うかで判別していたのですが……わからなくなるのも当然ですよね。
努力ではどうにもできなくなり、中学までと比べて成績がズドーンと下がりました。
勉強だけがすべてではない、そんな風に思える余裕もありません。
みんな僕のことを勉強ができないやつだと思っているんだ。
そう思い込むと、友人たちと一緒にお弁当を食べることすらできなくなり、ひとりでほかの校舎やトイレで食べていました。周囲の人もどんどん距離を置くようになりました。
この頃から、基本的に楽観的な母も本格的に心配しはじめたようです。
病院に連れて行ってほしい
学校に行くのが怖いという状況まで追い込まれていても、勉強時間を増やす以外にできることはなく学校も休みがちになりました。
登校前になるとお腹が痛くなってしまうのです。これは過敏性腸症候群の症状です。
「学校へ行くこと」は、僕にとってそれほどのストレスになっていました。
そんな中、学校で三者面談がありました。
僕の状況を心配した母が、先生に勉強についていけないことを相談しました。ここへ来てもやはり「読み書きが苦手」という認識ではなかったので、漢字が苦手、文章を読むのが苦手、英語が苦手……そんな風にお話ししたと思います。
それに対する先生の返答は、僕にとってショックなものでした。
「一生懸命がんばってるから大丈夫です」
大丈夫じゃないことを、どうしてこんなに誰もわかってくれないんだと泣き崩れそうになりました。
がんばっているからといって大丈夫ではない。がんばってもがんばってもできない、このつらさが誰にも伝わらないなら、もうダメだ!
先生の言葉に対して、僕がなんと言ったのか、母がなんと答えたのかは覚えていません。
ただ、その帰り道で母に「病院に行きたい」と地面を睨みながら言ったことだけは鮮明に覚えています。
そして、長い時間をかけた上で、発達性読み書き障害だと診断されました。
高校2年生のときでした。2013年、ようやく日本でも少しずつ「発達性読み書き障害」が知られてきた頃。僕は、病院で「治療もトレーニングもできない」と告げられました。
2024年の今、「発達性読み書き障害」「発達性ディスレクシア」は、この頃よりもだいぶ広く認知されるようになっています。正確な判定ができ、トレーニングができる専門家も増えています。
発達性読み書き障害を知らない一般の人であっても、学習障害、LDという言葉は知っている、そういう「苦手さ」があることは知っているという方も増えています。
それでもまだまだこの困り感を知らない人が、大多数なのではないかと思います。
僕は学校の先生、通級やことばの教室などの職員、支援員の方へ向けて講演会をすることもあります。先生方は「発達障害」はもちろん知っています。「学習障害」も知っている。けれどその理解はあいまいで、正しく病態を説明するのは難しいという方が大勢いることを実感しています。「発達性読み書き障害」となるとなおさらです。先生方の努力も重々承知していますが、教育現場で働いている人でもまだ詳しくは知らない、これが2024年の現実です。
けれど、十分な支援はできなくとも、まず「知っている」ことに大きな意義があると思っています。発達性読み書き障害の子どもたちの中には、学校ではとにかくがんばりすぎていて、放課後になると疲れ果ててぐったりとしてしまうという子がいます。家族や教育者が特性を理解していれば、「知ってるよ」「無理しなくていいよ」と本心から思うことができるでしょう。その心の在り方はお子さんの救いになります。第2章でお話しした「二次障害」を防ぐためにも、今の目標は、まず知ってもらうことです。
正しい理解が広まることで、支援は次第についてくるものと信じています。
<第7回に続く>