読み書きが苦手なのは努力不足ではなく特性。自分の障害を知り変わった生活/読み書きが苦手な子を見守るあなたへ⑨
公開日:2024/11/21
『読み書きが苦手な子を見守るあなたへ 発達性読み書き障害のぼくが父になるまで』(関口裕昭:著、千葉リョウコ:イラスト、宇野彰:監修/ポプラ社)第9回【全9回】
読み書きが苦手な子は40人クラスに約3人。原因がわからず学校の課題をこなせなかったくやしさ、苦しさ。障害を理解し、将来を模索し続けた日々。自立するとはどういうことか、学校や家族ができる、よりよい支援の形とは何か? そして発達性読み書き障害について発信を続け、理解を深めていくことの意味は? 言語聴覚士、また父として日々奮闘する著者が希望と決意に満ちたメッセージを『読み書きが苦手な子を見守るあなたへ 発達性読み書き障害のぼくが父になるまで』で綴ります。
※書籍では当事者へ配慮し、すべての漢字にふりがなが振られています。
それでも負けたくない
努力不足でできないのではなく、発達性読み書き障害が原因だとわかったこと、そして配慮を受けることが「合理的」であるという判断をしてもらえたことで、授業の受け方も変わりました。
学校の授業というものの、受け止め方が変わったと言ってもいいかもしれません。
いきなり垢ぬけたり、授業をサボったりしたことも、僕がそれまでとらわれていた固定観念から解放されるきっかけだったように思います。
視野が広がり、「こうでなければいけない」から「それぞれでいいんだ」と思えるようになったのです。
授業の時間は、その教科のその単元にしっかり取り組まなければいけないという意識が薄れ、やってもやってもできない国語と英語の授業は、「好きな教科」の内職時間になりました。
(ときどきサボることはあれど、まったく勉強しなくなったというわけではありませんよ? 笑)
これは進学校ならではの傾向かもしれませんが、基本的に生徒はみんな、大学受験に必要な各教科を均等に勉強していました。
僕は、英語や国語はどうしたってダメなのでこの2教科については勉強しないことに決めたのです。その時間は、自分が得意な数学や理系の教科、そしてほかの生徒があまり勉強しない教科を内職していました。
ほかの生徒があまり勉強しない教科というのは、一般的な受験に関係ない音楽や家庭科などのことです。たとえ受験に関係がなかろうと、国語や英語が最下位であっても、高得点が取れ、クラス1位になれると自己肯定感が高まります。
また、教室での「扱い」も変わってきました。
音楽や家庭科がクラストップで、国語、英語は最下位というのは、進学校では「変わったヤツ」です。勉強ができない真面目なヤツから、おもしろ路線にキャラ変した感じ……といえば伝わるでしょうか?
関口はそういうキャラと認識されたことで、英語の授業で音読を指名されたとき、「俺はやらない! 変わりにこいつがやります」と近くの席の友だちに押し付けて、顔を伏せて寝たふりをしても「まあ仕方ない」という空気になりました。
これもひとつの処世術といえるかもしれません。
読み書きが苦手なのは、努力不足だからではない。特性だ。できないことは負けではない。
そう頭では理解していても、みんなが当たり前にできていることができないというのはつらいものです。ましてや、まわりからできないと思われるのはさらに。
「読めない」のではなく、「読まない」変わったヤツだという受け取られ方は、僕自身の心の平穏につながりました。
こう考えると、当時の僕にとって、学校という居場所は人生の大半を占めていたのですね。
最近では、オンラインで学べる環境も整いつつあります。自治体によっても対応にはかなり差があるため、過渡期ではありますが、僕が学生だった頃よりも「学校に行かない」を選択肢のひとつとして持てる場合が増えているのではないでしょうか。
ただ、学ぶことはひとりでも保護者の方とでもできますが、社会性を育むという点では、年齢の近い複数の人と交流することの影響の大きさを感じるという声も耳にしています。
子どもたちの「学びたい」「成長したい」という欲求は、生まれたときから持っているものだと思います。読み書きが苦手な子どもたちからその気持ちを、活力を奪っているのは、文字で評価される学校という場の頑なさなのではないかと感じます。
文部科学省が公表した調査結果によると、2022年度の小中学校における不登校者の人数は29万9048人でした。これは過去最多の人数です。こうした中ですから、学校以外の場で学び、社会性を身につけていくこともひとつの手段として保護者の方には認識していただければと思います。もちろんこの不登校のお子さんたちがみんな読み書きに困難があるわけではないでしょう。ASDやADHD、あるいはほかの難病や身体的な不自由さ、家庭の事情など考えうる可能性は多岐にわたります。
こうした多様な子どもたちがみんな、それぞれの特性、個性に合う学びができる環境……学校が多様化すること、また、学校以外の受け皿が広がることを願っています。
念のため補足として、学校へ行くことがよいこと、行けないのが悪いことではないことは当然として、読み書きが苦手な場合は学校以外の場所で学ぶのがよりよいということではないことも書き添えておきます。
どれもすべて、横並びの選択肢のひとつとご理解ください。
もともと僕は「困っているお子さんを支援したい」という一心で臨床の現場へ飛び込みました。お子さんが中心で、「子ども」さえうまくいけばいいと思っていたのです。
しかし、次第にお子さんを通して、保護者の方の存在がとても大きいことを知ります。
保護者の方は、お子さんにとってのいちばん身近な存在。いちばん頼れる大人です。
お子さんの成長は親にとっての喜びだと感じます。生まれてすぐの泣くことしかできなかった頃からずっと大切で、いつまでも愛おしい存在ではないでしょうか。しかし、気が付くと、他の誰かと比べて優秀であるかを軸に評価を下している……。そんな経験はありませんか?
僕は臨床において「困難を克服しよう」ではなく、その子らしさを尊重し、今できていることに目を向け、一緒に成功体験を積むことを大切にしています。
成長していく姿を保護者の方と一緒に喜び、感動を分かち合う……。
ご家庭で、お子さんが小さかった頃の写真を見返しながら、当時のことを思い出してみてください。
あなたの受け止め方で、子どもの「感じ方」は変わります。
62ページで、保護者がお子さんの苦手を全面的に受け入れていて、子どもが自信を損なわずにいられたという例をお伝えしました。保護者の方の知識と理解、「ありのままの自分」が受け入れられていると感じられること、成功体験の積み重ね、こうした身近な環境により、子どもにとって社会の捉え方は大きく変わっていきます。今では家が「居心地のよい場所」であることも大切な支援のひとつであると感じています。
<関口の母からみなさんへ>
息子が「発達性読み書き障害」であるとわかったとき、できることなら治してあげたい。絶対になんとかしようと思いました。
けれど、調べた結果わかったのは、「治らない」ということだけ。
はじめは、障害のある子に生んでしまったと自分を責めました。
その後、夫の早すぎる死もあり、息子につらく当たったこともありました。
最終的に、私が実感し、心に決めたのは「自分を追い詰めず、子どもも追い詰めないこと」です。
これがなにより大切だと思います。
今この一時の成長を楽しみましょう。気が付いたら、親ができるのは「お米を送る」ことくらいしかなくなりますよ。