巨大組織と地域社会の闇に迫る渾身のノンフィクション『対馬の海に沈む』をレビュー
PR 公開日:2024/12/5
小説や映画で描かれる人間ドラマは、日常には現れない人間の業を私たちに伝える。しかし、複雑で不可解な人間の業や社会の闇は、身近な現実にこそ潜んでいる――そんなことを気付かせるのが、本書『対馬の海に沈む』(窪田新之助/集英社)だ。
集英社が主催する「開高健ノンフィクション賞」を受賞した本作。著者は、日本農業新聞の記者を経験後、フリーランスとして日本の農業やJA(農業協同組合)について取材、執筆してきた窪田新之助氏だ。本書が伝えるのは、長崎県のJA対馬の職員による共済金不正流用問題の知られざる裏側。横領の発覚直後、車ごと海に転落死した元職員の男性の疑惑に迫り、JAの構造の問題だけでなく、日本社会の暗部までも炙り出すノンフィクションだ。
2019年2月のある朝、対馬の小さな漁村で、国道を暴走してきた車が海に転落。運転していた当時44歳のJA職員・西山義治氏が海に沈み、亡くなった。西山氏は、JAの共済商品を提案するライフアドバイザー(LA)として卓越した営業成績を挙げ、JA共済連が開催する表彰式で「総合優績表彰」を何度も受賞するなどして、「日本一のLA」と呼ばれていた。歩合給も含めて時に4000万円を超える年収を手にしていた彼に、死の直前、共済金の横領の疑惑が持ち上がる。その後の調査によって、被害金額は少なくとも22億円にのぼると発覚。台風による家屋の被害を捏造するなどして、共済金を不正に受け取っていたというのだ。
西山氏は自殺したのではないか、と周囲はささやいている。著者はこの事件に対して、人口3万人ほどの島で西山氏が日本一の成績を挙げられたことや、JAの中でこれほどの大きな不正が見過ごされてきたことに疑問を抱き、独自に取材を進める。すると、組織内で「天皇」とまで崇められた西山氏の人物像やJA内外に及ぶ彼の大きな影響力だけでなく、JAの異常なノルマ強要の実態や隠蔽体質、そして驚くべき西山氏の共犯者の姿まで浮かび上がる。
裁判資料や調査結果、数々の証言を紐づけながら、新事実に迫っていく過程はスリリング。JAという組織の構造や、共済に関する説明も交えながら語られるため、不正の背景や仕組みがわかりやすく、金融に詳しくない読者も没入できる。国境の島で起こった出来事は、巨大組織の闇や、金や名誉への欲に縛られる人間の業、そして日本全国に存在するであろう、閉鎖的な地域社会の負の側面を伝える。西山氏だけでなく、横領を助長したものの彼ひとりに罪を押し付ける組織、不正に加担しながら口を閉ざす人など、責任を負うべき者も次々に明らかになるが、さまざまな要素が複雑に絡み合いながら、事態をこれほどまでに悪化させる巨大な「見えない力」を生んだと思うと恐ろしい。
著者が取材する西山氏の家族や、事件の関係者とのやりとりも興味深い。裁判では明かされていない事実を誠実に語ってくれる者もいれば、取材意図を聞くだけで怒り出す者もいるが、対馬の方言による彼らの言葉だけでなく、人物の反応も詳しく描写されているため、彼らを目の前にしたようなリアリティを感じる。そうした人々は身の回りにいるどころか、自分自身とも重なるからこそ背筋が凍る。「事実は小説よりも奇なり」をまさに体現した渾身の一作だ。