安部若菜 エッセイ連載「私の居場所は文字の中」/第6回「SNSは用法を守って」

文芸・カルチャー

公開日:2024/11/8

私の居場所は文字の中

 コンビニで、クリスマスケーキやおせちの予約案内を見かけるようになり、あぁ、年末が近づいてきたんだなと実感する今日このごろ。

 私はクリスマスケーキに心血を注いでいるので、既に今年のクリスマスケーキの注文は終えました。デパートで人気のケーキは11月になる頃には売り切れで予約を終了しているので、この世は情報戦だと常々感じさせられます。情報をキャッチ出来ない者は置いていかれるだけの非情な世界です。

 

 そして12月に発売を控える小説『私の居場所はここじゃない』の執筆作業も大分終わりに近づいてきました。2度目の校正作業が終わり、原稿が手元を離れた今、あとは特典物などの作業をしながら完成を待つのみです。表紙や帯などの打ち合わせも終えたので、公開出来る日はまだかと待ち遠しくてたまりません。

 また書籍情報もSNSで発信いたしますね。

 そうして私は様々なSNSで仕事のことなどを発信していますが、情報の溢れかえる現代に疲れてしまう日も少なくありません。また、SNSに連投するのも苦手で、告知が重なると何故か申し訳ない気持ちになります。

“現代人が1日に受ける情報量は、江戸時代の1年分だ”

 なんていう嘘か誠か分からない説もありますが、大阪から江戸まで歩いて2週間程度だったことを考えるとあながちズレた数字でも無いような気がしますね。

 スマホを見れば日本中、世界中の情報が入ってきて、その情報の海に眩暈がして、本当に溺れてしまうような錯覚に陥ることがあります。スクロールするだけで目に入る文字に、脳の処理が追いつかない気がするんです。

 なので自分自身のキャパが狭いと自覚してからは、意識的に目を瞑って情報を遮断するようにしています。最近は溢れかえる情報が有難いのではなく、疎ましいとすら思ってしまって、人類の進歩で便利になったはずなのに、江戸時代の人が羨ましく感じるなんて、皮肉なものですよね。

 何よりSNSを見ていて1番疲れてしまうのは、他人と比べてしまうことです。上を見れば数十万、数百万とフォロワーがいるような人はざらにいて、自分なんか…。と卑屈になるのも仕方ない気がします。SNSは卑屈製造マシーンなんです。

「何者かにならないといけない」風潮が強まった気がするのも、SNSが一因ではないでしょうか。自分の食い扶持を稼ぐだけでも十分すごいはずなのに、キラキラと目立つ人が身近になったことで、急速に”普通”が形を変えている。

 次作の小説の登場人物たちも、そんな現代を生き、何かになりたいと切に願う高校生です。

 大きな夢を語れば馬鹿にされ、努力しなければ見下され、自由気ままに夢を見ることも難しくなった現代において、それでも懸命に夢と向き合う彼らはどんな風に映るのでしょうか。

 もちろんSNSの恩恵は多大ですし、誰でも発信出来るようになったことのメリットも沢山あって、無くなったら困るのは間違いありません。当たり前になった現代だからこそ、きちんと用法を守って上手に使っていきたいものです。

安部若菜の最近読んだ本

すべての恋が終わるとしても―140字の恋の話―
すべての恋が終わるとしても―140字の恋の話―』(冬野夜空/スターツ出版)

冬野夜空さん『すべての恋が終わるとしても―140字の恋の話―

 最近、NMB48のメンバーとこの本の話をしたのがきっかけでまた読み返しました。10代で、普段全く本を読まない…という子ですが、SNSの投稿で見かけたのをきっかけにこの本を読んだそうです。

 私も同じくSNSでの紹介がきっかけでこの本に出会いました。140字の超短編なのに、色々と想像の膨らむ恋が詰まっていて、どれが1番好きだった⁉︎と思わず誰かと分かち合いたくなります。

 字数に関わらず、読んだ後に語りたくなる物語というのは素敵ですね。

 また直接の内容とは異なりますが、読者の中心が若い世代だというのも、この時代においてすごいことだと感じます。

 私は同僚に、小学生から20代後半がいる珍しい職場(アイドル)で働いていることもあり、周りのNMB48のメンバーに「本読まないの?」と執拗に聞いて回ることがあります。

 大抵の返事は「興味はあるけど字が沢山読むのが苦手」「読みたいけど忙しくて」

 そんな壁を易々と乗り越えてしまった140字の物語を一晩に少しずつ読んで、たくさんの人に読書習慣が身に付きますように…と勝手に願っています。

<第7回に続く>

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