こんな隣人付き合い、あり得ない?羨ましい?R-18文学賞大賞・白尾悠氏の新作は「少し特殊な」マンションに住む人々を描いた連作短編集
PR 更新日:2024/12/4
ひとりの時間が好きだ。本を読むのも、映画を観るのも、物を書くのも、ひとりのほうが対象に集中できる。でも、時々ふっと話しかける誰かや、一緒に食事をする相手がほしいと思うのもまた本音である。人との距離を詰めすぎても、開きすぎても、どことなく息苦しい。
そんな私にとって、白尾悠氏の連作短編集『隣人のうたはうるさくて、ときどきやさしい』(双葉社)に登場する舞台「ココ・アパートメント」は、あまりに魅力的な場所だった。
本書に登場する「ココ・アパートメント」は、「多世代の住人が協働するコミュニティ型マンション」である。
それぞれの個室に水回りが完備されていながら、共有の大型キッチンとダイニングルーム、ランドリールームが整備されている。「共に」を意味する英語の「CO」、独立した個人を意味する「個々」、今生きているこの場所を大事にしようという理念からくる「此処」。3つの「コ」が掛け合わされたこの場所で、年齢も家族構成もまったく違う人たちが生活を共にしている。
年配の一ノ瀬夫妻、3人の子どもがいる江藤ファミリー、おばあちゃんの知恵袋を彷彿とさせる菅野康子など、複数の家族や単身者が住まうココ・アパートメントに、高校生の八木賢斗が入居する場面から物語がはじまる。章ごとに入れ替わる語り手は、第2章以外すべてこのマンションの住人だ。ひとりだけど、ひとりじゃない。そんな環境に身を置く人々は、みな一様に自分だけの荷物を背負っている。
私が特に印象深かったのは、第4章「隣人の庭は」で描かれる大江聡美の物語だ。聡美はシングルマザーで、一人娘の花野がいる。数年にわたる離婚裁判を経て、正式に離婚が成立した日、聡美はそれまでの道のりを振り返る。
元夫の堀健太郎は、一見すると育ちがよく、仕事にも真面目に打ち込むよきパートナーに思えた。しかし、結婚後から徐々に違和感を覚える言動が見られるようになり、聡美が妊娠してからは横柄な態度に拍車がかかった。そればかりか、まだ幼い花野を強制的にお受験の道に引きずり込んだ。お受験そのものは選択肢の一つであり、それがすべて間違いとは思わない。だが、花野は明らかに拒絶反応を示しており、ストレスからくるチックの症状も顕著であった。同時に、聡美自身もまた、健太郎が投げつける暴言の数々に心身を蝕まれ、うつ病とパニック発作を併発した。
自身と花野にかかるストレスの深刻さを理解した聡美は、経済的な面も含めて、着々と離婚の準備を進める。だが、そんなある日、聡美は健太郎にまつわる恐ろしい秘密を知ってしまい……。
これ以上、父親と娘を一緒に生活させるわけにはいかない。そう判断した聡美は、夜逃げ同然にシェルターに駆け込み、のちにココ・アパートメントにたどり着いた。花野は、マンションの住人たちとの温かい触れ合いや、何事も強要されない自由な生活の中で、徐々に元気を取り戻していく。
ある日、幼い花野が隣家に住む大家の勲男さんの庭に入り込んでしまったことがある。その時、勲男さんは親子に対し、次のような言葉をかける。
「子供にとって安心できる場所はいくつあってもいい。私のようなジジイがよその子供のためにできることは、せいぜいそういう場所を増やしたり、守ったりすることくらいなんだよねぇ」
世の中には、悲しいかな「安心できない場所」が数多く存在する。本来、安全基地であるはずの「家庭」がそれに該当する場合も少なくない。「家族ゆえ」逃げ場がない痛みは、往々にして閉塞感を伴う。被害者の声を矮小化する周囲の大人が少なくないこともまた、その実態に拍車をかけている。だが、聡美は逃げた。大切な者の手を引いて、「絶対に守るんだ」という強い意志を手放さず、「安心できる場所」にたどり着いた。そんな聡美の強さは、かつての聡美と同じ立場にいる人にとって、勇気のカケラとなるだろう。
聡美に限らず、多忙な親の子どもを住人たちが自然な形で気にかけている様子が、本書の端々で見てとれる。互いに助けたり、助けられたりの循環が生まれるココ・アパートメントは、まさに協働生活と呼ぶにふさわしい場所だった。タイトルにある通り、「うるさくて、ときどきやさしい」隣人たちとの生活は、決して楽園ではない。しかし、大切なものを守りたいと願う時、自分の手だけでは到底足りないと感じる瞬間は多々あって、そんな時、「こっちの手、空いてますよ」と差し伸べてくれる手が複数あったなら、誰もがもっと楽に息ができるだろう。
文=碧月はる